ships #12
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季節は一直線に夏へと向かっていた。
日々の仕事に加えてプロジェクト業務を併走させる安里は相変わらずフル残業の毎日で、週末ともなればベッドから出られないほど疲れていたが、それ以上に今自分が携わっている仕事の大きさを自覚し、また古い仲間の後押しによってかつてないほど気持ちが充実しているのが分かる。日々変化し続ける状況に臨機応変に対応しながら、そんな自分が誇らしくて、より高みを目指そうと頑張れる。すべてが順調だった。
長丁場となるプロジェクトは全体での方針決定を受け、各部署がそれぞれ本格的に動き始めている。週に2度の全体ミーティングも進捗報告が中心となり、中央で指揮を執る水瀬は全体把握と対処の指示を出すことが多くなった。
それをいつもの席から見守りながら、安里はしみじみと事の顛末を噛み締める。見渡す顔ぶれからはこれがエリート集団と断言しても差し支えがない。そこに自分が混じっていることに未だ違和感が拭えないのも無理なかった。
本社採用で叩き上げられた周囲と違い、安里は途中入社組である。
これまではこんなプロジェクトどころか何かの担当をひとりで任されることもなかった。そもそも法務部という性質柄、契約や商標に絡むことはあってもメンバーとして迎えられることは滅多にない。それが今回は社長直属の大仕事に抜擢され、各部署の選りすぐり達と肩を並べて仕事をするのだ。これ以上緊張を強いられ、またそれと同じだけワクワクすることはなかった。
まずはプロジェクトが成功することだけを考えて───。
「では次回、木曜に」
会議終了と同時に広がるざわめきで我に返った安里が顔を上げると、その先には水瀬がいた。
初対面時に最低ランクをマークした評価は、同じプロジェクトに携わるようになり、その仕事ぶりから一旦保留に収まっている。以前のような藪睨みを控えているのか、今は落ち着いた表情を浮かべていた。だが事あるごとに目を合わせ、睨み返していた安里には僅かな違いも見て取れる──疲労が溜まっているのだと。
「水瀬さん、お疲れさまでした」
「……あぁ」
思えば、これが初めて彼の名前を呼んだ瞬間かも知れない。敵対心を剥き出しにしていた頃は想像も付かなかったけれど、越えてみれば壁はひどく低かったのだと気付かされる。
「顔色あまりよくないですね。寝てますか」
思い掛けない問い掛けに眼鏡の奥の目が開いた。だがすぐに元のポーカーフェイスを取り戻す。小さな溜息と共に吐き出されたセリフは予想通りの答えだった。
「君も残業続きだろう」
「水瀬さんが膨大な資料を望まれるので」
「嫌味か」
「まさか」
嫌ならとっくの昔に逃げてます。
そう告げると、水瀬は口端を持ち上げて笑った。
「変わった男だな、君は」
「我慢強いんですよ、きっと」
「……それはどういう……」
水瀬が追求しようとした時、会議室の次の予約者がドアを開き、会話はそこで打ち切られる。廊下を挟んで向かい側の居室に戻るという水瀬の背中を見送って、安里は不思議な感覚に囚われていた。
あんなに近付き難いと思っていた人と話した。
中断されなかったらどんな感じだったろうかと思いを馳せ、意識はゆっくりと浮遊してゆく。
安里は長いこと、そこに立ち尽くしていた。
ships#13 に続く
ships #11
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それからの3年間、心の空洞を埋めるように安里は短い恋ばかりを繰り返した。
身を削る恋愛を怖がり、身体だけの関係に傷を広げ、馬鹿げたことだと分かっているのにどうすることも出来ないでいる。無性に喉が渇いていた。この渇きを癒してくれるものなら何でもよかった。たとえばそれが一夜限りの愛であっても、安里に断る理由はなかった。
憑かれたように刺激だけを求め続ける心は瞬く間に荒んでゆく。ボロボロに擦り切れた魂は、もはやコウでさえ手に負えなかった。
あの人が叱ってくれなかったら───。
懐かしい面影をなぞっていたその時、ポン、と頭に手を置かれる。驚いて顔を上げるとそこには思い描いていた人物が穏やかな笑みを浮かべ立っていた。
「……梶原さん……」
「アサト。来てたのか」
「こんばんは。お久しぶりです」
オーナーである梶原はいつも通りのんびり頷くと、カウンターの向こうで煙草に火を点ける。お気に入りの鈍色のジッポがいい音を立て、オイルの匂いが鼻腔を突いた。深々と一息吐き出したのも束の間、こんな狭いトコで吸ったらアタシ焦げちゃうでしょ、とコウに叱られ苦笑している。まったく変わらないふたりの遣り取りが嬉しくて、安里もまた眉を下げた。
そう、こんな風に穏やかな人が、あの時だけは厳しく叱ってくれたのだった。
安里が危ない恋愛の仕方しか出来なくなっていることを気に掛け、折に触れ忠告をしてくれたのが梶原だった。コウが日々の世話焼きなのだとしたら、梶原はここぞという時に短い言葉をくれる。今や数少なくなった古き良き日本の父親像を自分は彼にダブらせていた。
身も心も疲れ切り、もうすべてがどうでもいいのだと酒に酔った勢いでぶち撒けた時、梶原は最後まで黙って聞いてくれた。そうしてポツリと告げられた言葉に、安里は愕然とした。
──おまえはここから出なきゃいけない。
行く当てもない自分を追い出すのかと見返した瞳、梶原の目もまた痛みに揺れているのを見て、安里は初めて自分の行動を省みた。
自分を偽らずにいられる場所で生きることは楽だけれど、その中に閉じ籠もるのは世間から逃げていることとも等しい。だから社会の荒波に揉まれ、時に心ない言動に傷付きながらも自己を確立し、生きる訓練をしながら傷付いた心を癒すようにと梶原は静かに諭したのだ。
──ここはおまえの帰る場所だ。
悲しいことがあったら、いつでも帰っておいで。
雛を巣立たせる親鳥は伊達にこの世界で長く生きていない。梶原は、安里がこの先出会すであろう想像以上のキツさをよく分かっていた。だからこそシェルターになると告げる。それがあるだけで立ち向かえると信じている。
──いいかアサト。おまえの人生の主役はおまえだけだ。
舞台の真ん中で、踏ん張りなさい。
この言葉がその後どれほど自分を支えたか分からない。挫けそうになるたび梶原を、コウを思い出し、自分は現実と戦い続けることが出来たのだと思う。
背中を押してくれた想いを胸に安里は社会人になる決意をし、資格を取って会社に入り、そして今に至る。怒濤の日々はこれまでのどれとも比べることが出来ないほど濃密で、だからこそ今の自分があるのだと思えた。
「……グラスが空いてるな」
ひょい、とカウンターから手が延びる。オーダーを取るでもなく梶原は銜え煙草でグラスに氷を入れ、ウーロン茶を注いでくれた。
「おかわりでよかったのに」
「明日も仕事があるだろう」
そう言ってニッと笑う。かつての雇い主である顔ではなく、同じく仕事を持つ人間として自分を見てくれたことに、安里は胸が熱くなった。
だから報告をと口を開く。本来企業秘密ではあるのだけれど、今自分が関わっているプロジェクトのこと、仕事仲間のこと、いろいろなものを抱えながらも日々頑張っていることを、かつて自分を甦らせ、今も尚支えてくれる梶原にありのままを伝えたかった。
「梶原さん。仕事の話、してもいい? ───俺、頑張ってるから」
ships#12 に続く
ships #10
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夜の闇を切り裂く月光。
一筋の淡い光は地上に届く前に霧散し、禍々しいネオンの渦に吸い込まれていた。
そろそろ深夜に差し掛かろうとしている。耳慣れたジャズをスローテンポなものに替えながら、コウは他の客のオーダーに駆り出されていった。見た目は笑顔でもこっそり片手で拝んで見せ、ついでに小さく舌打ちしていたのは安里だけに聞こえている。
「まったくもう、公私混同もいいトコだよ……」
苦笑し、機敏な動きを目で追い掛ける。決して広くはないカウンターの向こう、泳ぐように次々と注文に応える様は見ていて気持ちよく、彼の長い経歴を彷彿とさせた。
バーカウンターに肘を突き、安里は疲れた頭をそこに乗せる。心地よくアルコールが回った体は少しだけ痺れるようで、思考回路が回らないからこそ "楔" を鮮明に浮き上がらせた。
これは罰か。それとも咎か。
もう5年も前になるのに深く刺さった棘が抜けない。痛みは和らいでも傷が完全に癒えないのは、誰に対しても心を100%預けることが出来ない今の自分が証明している。
恐いのだ。裏切られるのが。
あの時の、あの人のように。
空になったグラスの足をコツン、と弾いて、安里は過去への扉を開けた。
あれは月の綺麗な夜───。
いつものようにドアが開いて、初めて見る客がひとり、奥のソファに席を取った。紫がかった濃紺のスーツに身を包み、襟足を伸ばした栗色の髪を後ろに撫で付けている。歳は若干上、だろうか。一目で夜の商売だとは知れたものの、自分と同じ匂いはしなかった。少なくともゲイではないだろうに、こんなところに紛れ込んだのは一体どんな気紛れか。
商売敵に対するライバル心は勿論皆持っているが、そもそもゲイコミュニティーは大きくはない。だからこそ、どんなに反発し合ってもお互いがこの世界を守ることを最優先にする。そこへ異世界の人間が客とはいえ潜り込むのは水違いというものだ。当時の自分もまた、些か違和感を覚えながらオーダーを取りにいったことを覚えている。
そこで目が合わなければ。
そこで声を聞かなければ。
今思い出しても体が震える。好きとか嫌いとかそんな簡単な区別じゃ言い表せない感情が一気に沸き上がり、身体の芯がカッと熱くなった。吸い込まれそうな瞳は相手の動揺などすべてお見通しだと一切の揺れを許さず、ただ穏やかに弓形を描く唇が安里の挙動を見守るばかりで。
ドライマティーニを、と告げた声があまりに涼やかで、一瞬反応が遅れたスタッフを聞き逃したと捉えたか、客人は身を屈ませ、その僅かな距離を縮めた。柔らかな衣擦れを間近に捉え、一気に吸い込んだ香水に立ち眩みに似た感覚を味わう。まるで噎せ返るカサブランカ。彼が耳元から離れた時には、心臓が早鐘のように打つのを自覚していた。……恋に、落ちていた。
──ノンケ好きになっちゃ、自分が不幸になるだけよ。
安里の様子がおかしいことに気付いたコウは繰り返し釘を刺した。
──やめなさいアサト。あの人はダメ。
何度も投げられる制止の声はやがて耳に入らなくなってゆく。
これがただの客ならコウもそこまで止めなかったかも知れない。相手がこの界隈では知らない者はいないと評されるクラブ『chevalier noir(シュヴァリエ・ノワール)』のホストであり、テーブル接客からベッドの相手、果ては売りと呼ばれるドラッグ類の売買まで法律の網の目を潜って手広く商売している店の、5本の指に入る人物だとしたら。
そこは "黒い騎士" を意味する店名の通り、ナイトの如く客に忠誠を誓い、その証に跪き、手の甲にくちづけし、あらゆる要望に応えてゆく。中でもフロアの真ん中で決闘をやってみせ、指名客の度肝を抜いたことで有名な長髪の青年こそ、ships を訪れた橘 涼だった。
だからこそコウは長年培ってきた情報網を駆使し、安里に危険信号を発し続けた。けれど盲目な羊は進む先が崖とも知らず、ただひたすらに向かって行く。
何度か店を訪れるようになった橘のオーダーを受けるうち、少しずつ話すようになり、好みや趣味を覚えるようになり、訪問を待ち焦がれるようになるまで大した時間は掛からなかった。毎日が新鮮で、毎日が楽しかった。誰に咎められても構わなかった。手を延ばせばすぐそこに、求めるべきものが存在していた。
言葉は温度に代わり、温度はくちづけになる。
くちづけは溜息を生み、溜息は吐息に変わる。
背があまり高くない安里は、長身の橘が腕を回すとすっぽりと抱えられてしまう。それがひどく嬉しくて、ねだるように何度も求めた。世界はふたりのためにあり、愛もふたりのためにあった。朝も昼も夜も飽きずに抱き合いながら同じ夢を見続けていた。
──否、そう思っていたのは自分だけだったのかも知れない。
別れはあまりに唐突に訪れた。
身体を重ね、想いを重ね、身も心も寄り添わせていたと思っていた相手はいとも容易く自分の前から姿を消し、ガランとしたマンションの一角に安里だけが取り残された。
心まで空洞になってしまったのではないかと思えるほどの衝撃。
1日待ち、2日待ち、食事も満足に摂れないまま安里は彼の帰りを待った。待った。待った。待ち続けた。待つのを止めたら自分は置いて行かれたと認めることになってしまうから、それだけはどうしても出来なかった。楽になる方法がそこにはなかった。
数日後、応答しない電話に業を煮やしたコウが無理矢理部屋に押し入ると、精気の抜けた姿で玄関に座り込む安里の姿があった。いつ橘が戻ってもすぐにおかえりを言うために、ベッドにも行かず横にもならず、ずっとここで待っていたのだ。
故にコウは決断を下した。彼は真実を携えていた。
──アサト。落ち着いて聞いてね。
あの人はもう、別の人のものなんだよ。
確かな情報筋が告げる、それはありふれた結末。
何度繰り返しても微笑みを浮かべるだけで、頑なに現実を受け入れようとしないのを見兼ね、コウは一度だけ手を挙げた。灯りのない玄関に乾いた音が響いた。
びっくりした赤ん坊のように、見開かれたままの瞳から涙が溢れる。止めどなく流れるそれを拭うこともせず、泣いていることすら自覚なく、安里は声もなく双眸を濡らした。いっそ喚き散らしてくれた方がどんなにマシかと思う。ショックのあまり己の感情を殺すように静かに泣き続ける安里を抱き締めながら、コウは悔しさとやり切れなさに唇を噛み締めることしか出来なかった。
秋の終わりの出来事。
想いの終着地、心は木っ端微塵に砕け散った。
ships#11 に続く