ships #15
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皆が一斉に各自の仕事に没頭し出してからも、安里は不安が消せないままでいた。
上がってきたデザインに不満があるわけではない。時間的な制約を考えれば、今すぐ指示を出さなければならないというのも分かる。恐らくこの胸騒ぎはルール的なものではないのだ。経験という枠を越えた自分の第六感が、ここは敢えて踏み止まらなければならない分岐点なのだと告げている。それは脳裏を掠める朧気な記憶が裏打ちしていた。
過去に商標を調べている時に、今回提示された図版と似たようなものを見た気がする。もしかしたら自分の勘違いかも知れないし、よく見ればまったくの別物かも知れないけれど、もし、もしも酷似していたとしたら、仲間が走り出したレールの先には奈落の底にしか有り得ない。
キュッと唇を噛む。握り締めた掌、じっとりと汗が滲んだ。
調べるしかない。
商標の数などそれこそ無数といっても過言ではないけれど、そして本来そのような調査は受領前に行うべきことだけれど、状況的にそれが許されないのであれば、今自分に出来ることはギリギリまで諦めないこと、ただ、それだけ───。
刻々と過ぎてゆく時間の1分さえも惜しむように、安里はただひたすらにモニタ画面を睨み続けた。
「…………これだ……」
結局家に帰れないまま一夜が明けた翌日。
まだ誰も出社していない閑散としたオフィスで、呆然と口元に手を当てる姿があった。釘付けになった視線の先、発光するディスプレイには今回のデザインによく似た登録商標が映し出されている。──版権違反だった。
「なんてこと……」
全身から一気に血の気が下がるのが分かった。指先が瞬く間に冷たくなってゆく。堪えようとしても堪え切れない震えが背筋を駆け上がり、受け止め難い現実に目を閉じるしかなかった。
犯してはならない最悪のタブー。
コンペ落選どころか、二度と仕事がもらえなくなる最大の危機。
瞼を開くことも出来ないまま、落ち着け、落ち着けとただひたすら己に言い続けた。明日の午後にはプレゼンが迫っている。今日中にすべての出し直しが出来なければこれまでの苦労はすべて泡沫と消えるのだ。安里、落ち着け。落ち着いて最善の解決策を探せ。諦めるのではなく打開策を。必ずある。どこかにある。見付けにくいだけで、出口はいつも必ず存在している。
「───よし」
顔を洗うために席を立つ。既に気温急上昇中のビルは蒸し暑く、水道管の水も温い。けれど緊張で気が立っている安里にとって、それさえも構う余裕はなかった。
そのまま階段で階下へ降り、早々に出社しているであろう司令塔の席へ向かう。案の定、戦略マネジメント開発部の扉を開けると、そこには既に書類に目を通している水瀬の姿があった。
「水瀬さん」
「……あぁ、早いな」
声を掛けると目を上げ、首を傾げてみせる。昨夜も遅くまで作戦を練っていたであろうこの人に、これからそれがすべて崩壊するような内容を伝えるのかと思うと胸が痛んだ。
「落ち着いて聞いてください。……デザインを、すべて差し替えなければならなくなりました」
「どういうことだ」
透明なガラスの向こう、焦げ茶の瞳が眇められる。
「これを……」
正視に耐えられず、襟元に視線を逃がしながら安里は携えてきた出力一式を手渡した。先程の版権元の資料に目を落とすなり、水瀬の表情がガラリと変わる。奥歯を噛み締めた拍子に輪郭が少し揺らいだ。それは彼が初めて見せる狼狽の表情だった。
「3年前に既に登録されているものです。詳細を見ましたが、現状回避出来そうにありません。……明らかな侵害です」
一気に畳み掛けると水瀬が片手で目を覆う。小さな声で、そうか、と呟いた。
「今すぐ手を打ちましょう。水瀬さんは幹部報告をお願いします。俺は、メンバーを集めて何とかします」
「……分かった」
毅然とした声に後押しされるように、水瀬は俯いていた顔を上げる。そこにはもう動揺の色はなく、様々な修羅場を潜ってきた戦歴を滲ませていた。
「どこまで影響が出るかまず見てくれ。出来たら模型の類は最小限の変更に押さえたい」
司令塔は手元の資料を素早くまとめつつ、スーツの上着を羽織り戦闘態勢に入ってゆく。
「大版出力押さえといてくれ。最悪2台とも使って出し直す」
「了解しました。企画に繋いでおきます」
バタバタと廊下を闊歩しながらふたりは同時に2台のエレベータのボタンを押した。水瀬は階上へ、報告のために。安里は階下へ、メンバー招集のために。それぞれ二手に分かれる相手を見返し、無言のまま目だけで語る。
非常事態だからこそ見えてくるものがあるのだとしたら、それはきっと、この勝負に賭ける想いだけ。
先に到着した上行きのエレベータに乗り込みながら、背中越しに水瀬が語る。
「………すまない。後は頼む」
本当はすべてを自分で統率したいだろうに、立場上それが出来ない彼だからこそ、不在中の混乱を最小限に押さえ、かつ明日に繋ぐ役割を任されたことを誇りに思う。
安里は静かに背中に応えた。
「分かりました」
閉まる扉の向こう、水瀬がひとつ頷いた気がした。
ships#16 に続く
ships #14
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それは唐突な落とし穴。
多くの計画に障害が付き物であるように、水瀬が推進するプロジェクトもまた、ひょんなことから危機的状況に陥っていた。
順調だと思われていた進捗は、ひとつの部署の遅れにより芋蔓式に全体に波及する。たったひとつの歯車が狂ったことで次々に階段を転がり落ちてゆく恐怖。担当レベルで救える程度ならまだしも、協力会社数社を巻き込む建て直しに誰もが最悪の結末を思い描いた。
プレゼンは数日後に迫っている。このままでは間に合わない。
誰もが焦りに自我を失い、幹部クラスでプレゼン辞退の検討会すら持たれる中、プロジェクトリーダーを任された水瀬だけはひとり静かに手筋を読み続けた。
一手間違えればすべてが終わる。想像を絶するほどの重圧。
恐いくらいの迫力に安里でさえ声が掛けられないでいた。ただひたすら不安要素を取り除くべく奔走し、根拠のない噂をひとつひとつ沈静化することぐらいしか今の自分に出来ることはなく、改めて己の無力さを痛感するばかりで。
それでも、心に決めたこと。プロジェクトの成功。
あの日水瀬から聞いた、この計画に込めた想いを昇華させるために、自分はとにかく冷静にあれと念じ続けた。
事態の急変は混乱を招き、混乱は憶測を生む。憶測は不安に変わり、不安は恐怖にすり替えられる。強靱な精神力で押し込めている蓋も開かない保証などどこにもないのだ。
現に、プロジェクト全体を支えていた支柱が、かつてないプレッシャーに少しずつ歪んでいることを誰も気付かない。目に見えないところから刃こぼれするように、ゆっくりと、だが確実に蝕まれてゆく水瀬の精神は、リミットと読んでいた午後20時の時点で堪え切れずにヒビが入った。
もう、間に合わない───。
全員がガックリと肩を落としたその時、扉の向こうが騒がしくなる。バタバタと誰かが駆けてくる音。
「水瀬さん、あれ……」
「まさか……」
言葉に出来ずただ椅子から立ち上がった。大きな音と共に開かれた会議室のドアが向こう、ふたりのメンバーが肩で息をしながら両手に版下を携えていた。
「遅くなりました!」
「……間に、合った……?」
色校直前でマシントラブルが発生したと何度も詫びながら、下請け業者から持ち込まれたデザインを会議室中央の大テーブル一面に広げる。このプロジェクトのプレゼンテーションで使用する資料一式が奇跡的に上がった瞬間だった。
「まずは点数確認してください。パターンと、モデルと……特色の発色は素材別見本があるはずです。工房で至急模型に起こしてもらって。それから引き取り時間確認してください。───すべて明後日の朝までに」
上がりをザッと見渡すなり水瀬は受領処理をするよう経理に連絡し、続いて各担当に指示を飛ばした。もう駄目かと思っていた矢先、見えた一縷の望みに一同は一斉に動き出す。バタバタと工房に走って行くプロダクト制作部の主任を見送りながらも、安里は妙な胸騒ぎに居ても立ってもいられなかった。
「……水瀬さん」
「プレゼンメンバーはゲラを見ながら戦略を考えます。別室へ」
「水瀬さん、待ってください!」
傍らの安里などまるで目に入らないかのように、半ば鬼気迫る勢いで采配を振るっていた司令塔だが、度重なる呼び掛けにようやくのことで顔を向けた。けれどその目は安里を見てはおらず、既にプレゼンにのみ焦点が合わせられている。一足飛びに現実を飛び越える相手への進言に一瞬言葉を詰まらせつつ、顎を引き、静かに告げた。
「まだ社内手続きが終わっていません」
「おい、安里……」
背後から顔見知りのメンバーが止める。この機に水を差してはとの気遣いに、胸騒ぎは一層激しさを増してゆく。
「まだ関係部署が内容を確認していません。これを受理するわけにはいきません」
本来、外注から上がってきたものはすべて受け入れ段階で企画や戦略、法務が確認し、合意の元受領手続きを行うのがルールだった。
受理するということは、受注した内容すべてにおいて発注時の要求が反映されており、問題ないと認めたと等しい。逆に一旦受理してしまえば、その後何か問題があっても責任はすべてRSC企画のものとなり、下請け業者を追求することは出来なくなる。問題を水際で防ぐ意味合いから必ず実施しなければならない規則だったが、それに少なくとも丸一日要することもまた事実だった。
「何言ってんだよ安里。プレゼン明後日なんだぞ」
割って入るメンバーの声がキンと尖る。
「それにここなら付き合い長いし、今まで特に問題になったこともないだろ」
「でも、水瀬さん……」
声の主を押し遣り、判断を仰ぐようにプロマネを見上げる。言葉では説明出来ないこのモヤモヤした感覚が気掛かりで、安里はせめて1日の猶予が欲しいと訴えた。
──けれど。
「今は時間がない。イレギュラーな処理として認識してくれ」
淡々と言い渡され、一瞬の間をおいて周囲は先程の喧噪に戻ってゆく。
呆然としたままの安里は僅かな不安や苛立ちをどうすることも出来ないまま、その光景を見守っていた。
ships#15 に続く
ships #13
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まったく今日という今日は勘弁ならん。
怒りで両肩をいからせながら、歩幅も大きく安里は居室を後にした。
腹の虫が居所を悪くしたのは連日残業のせいではなく、単に余所の部署のどうしようもない課長が例によって例の如く無茶難題を押し付けてきて、その上明後日までに結果を欲しいと宣ったせいだ。以前も同じような遣り取りをして、その時はこっちのトップが直々にそのような依頼は請け兼ねると言い渡したにも関わらず、ほとぼりが冷めたと見るや担当レベルの安里に上からの立場で物を言う。
「もー、あんな課長なんてさっさと辞めりゃいいのにさっ」
思わず愚痴も出るというものだ。
エレベータから広いエントランスを抜ける間、周囲には少しの人もガードマンもいたが構うものか。どうせこんな深夜近い時間、残っている者など誰だって鬱憤を抱えているに決まっている。
カツカツと靴音も荒く自動ドア前まで来た時、不意に呼び止める者があった。
「随分ご立腹だな」
声を掛けられるなど夢にも思っていなかったため、一瞬件の課長かと息を飲む。だが見上げればそこにいたのはまた別の意味で驚くべき相手だった。
「み、み、み、水瀬さん!?」
「……そんなに驚かなくてもいいと思うが」
「すいません。その、ちょっと、びっくりして……」
しどろもどろになりながら携えていた鞄を持ち直す。格好悪いところを見られたものだとガッカリする一方、自分はいつからこの人の前で取り繕おうとしていたのかと冷静なもうひとりが問い掛けた。
「それより、あの……今帰りですか?」
「あぁ。今日は案外片付くのが早かった」
だとすれば、いつもはもっと遅いのか……。
水瀬と向き合う視線の先、壁に掛けられた時計はとうに23時を過ぎている。
「じゃあ、駅まで一緒に歩きませんか」
言った途端、安里は我に返って驚愕した。
自分の発した言葉に驚くというのも実に間抜けな話だが、これまでの距離感を一気に飛躍する誘いに水瀬が体よく辞退するだろうことは想像が付いて、更に断られた後の情けない自分がなんだか堪らなかったのだ。
けれど、プロジェクトリーダーの顔を見て、安里は何度も瞬きせざるを得なかった。
「……水瀬さん?」
面食らったまま唇を引き結ぶその反応を、最初は口も利けないほどの拒絶かと思ったがそうではないらしい。むしろ思い掛けない内容に処理が追い付かないとでも言いたげに硬直するのを見、素直に可愛らしいと思った。
「いや、何でもない。行こうか」
覚悟を決めたのか、くるりと踵を返し歩き出すのを追って、安里もまた横に並ぶ。こうしてみると10cmはあろうかという身長差が一層際立った。
社員証のIDを照合させ、エントランスを抜ける。温い風が頬をさすってゆくのを感じながら、いつもは帰って寝ることだけを考えている道を、今日はもうひとりの存在を感じながらゆっくり歩いた。
「……そういえば、」
思い立ったように水瀬が口を開く。
「さっき何か怒っていなかったか」
「あー……。えーと、ハイ、まぁ。でも別に大したことじゃないんです」
訳を話せば理解してくれるであろうことは分かっていたが、駅までのほんの10分間、つまらない話で埋めてしまうのはどうしてももったいなくて、安里は代わりに話題を振った。
「それより、プロジェクトもだいぶ軌道に乗ってきましたね。このまま順調にいけばコンペ前にプレも出来そうじゃないですか?」
「あぁ、予想以上に早いペースで進んでる。各所通常業務を遣り繰りしてくれているお陰だな」
横から見上げる表情はいつもの眼鏡越しではなく、彼がそっと目を細めたのがよく分かった。
こんな柔らかな表情も出来るんだ……。
じっと視線を送っているわけにもいかず、名残惜しい思いを抱えながらそっと上を向く。上弦の月が仄かに雲間から覗いていた。
「……それにしても凄いですよね。今更ですけど、こんな大きな仕事」
「ウチの会社で受けるには過去最高かも知れないと常務が言っていたな」
「どうりでチェックの厳しさが尋常じゃないと思いました。……って、それを毎日報告している水瀬さんはもっと大変なんでしょうけど……」
「まぁ、司令塔だからな」
向き直らなくても雰囲気で分かる。彼は今きっと口端を持ち上げて少し笑ったのだろう、纏う空気が柔らかさを増した。
「このプロジェクトは他のものとは扱いが違う。その分皆にはしんどい思いをさせて申し訳ないが……どうしても成功させたいんだ」
「水瀬さん……」
「今進めている内容なら、きっと東京都が今後環境活動を展開する上で本当に有益なものが出来る。それは未来に引き継ぐ大きな財産になると、俺は信じている」
日本の首都として、経済拠点として、世界のキャピタルシティのひとつとして。
「……本当は会社の利益を第一に考えるべきなんだろうが」
眉を下げ、苦笑を漏らし。
「そんな風に夢を見ながら仕事をするのも悪くないだろう」
───あぁ、神様。
淡々と、けれど熱い想いを内に秘めて語る人と共に仕事が出来る幸せを感謝します。
「えぇ。……えぇ、本当に」
冷酷で排他的だと評される水瀬がどんなにこのプロジェクトに賭けているかを知り、安里は不覚にも涙を滲ませた。それを隣人に悟られないように上を向いて歩きながら誓う。
精一杯やることを。
共に夢を見ることを。
すべてが報われますように。
地下鉄の入り口で別れた後も、安里はそればかりを祈り続けた。
ships#14 に続く
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