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 2007年07月 

ships #08 

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 懐かしい声が聞きたくなった。
 気持ちに余裕がなくなっているのか、はたまた先日の合コンで昔のことを思い出したためか。理由は定まらなかったけれど、ここのところ満足に眠っていない日々の積み重ねがそろそろ許容量を超え始めているサインであることは自覚している。
 だからこそ今は休養以上に心を解放するのが先だと判断。激務を強いるメールを見なかったことにして、安里は仕事を切り上げ古巣へと足を向けた。
 新宿2丁目。
 新宿駅東口からアルタを抜けて西武新宿駅前のマクドナルドを右に。歌舞伎町のネオンを後目に、客層が変わるまで歩くとその街はある。鬱屈とした社会から隔絶するように一歩路地に踏み入れば、そこには己に正直に生きる人達でいつも溢れ返っていた。心と体と魂がいつも共にいられる場所。すべてにおける始まりの場所。
「……落ち着くな……」
 表通りから少し入ったところにある、船の舵を象った入り口が印象的なバーが馴染みの店。店名に刻印された"ships"の文字が下からのライトで綺麗に浮かび上がっていた。
 ほんの数年前まで、ここが唯一の居場所だった。
 己の性に疑問を持ちながら鬱々とした学生時代を過ごした安里は、大学入学と同時に上京した東京で自分を解放させることを覚えた。小さな田舎町では受け入れられない存在も大都会では行き場があると知り、どんなに嬉しかったか分からない。夜の街の恐さも、懐に痛い出費も、自分であることを保つために乗り越え、気付いたらここに根付いていた。自分にとっての故郷だった。
 右手で慣れたドアを引き、途端流れ落ちるジャズの心地よさに目を細める。来客の顔を見とめたバーテンダーは、ダウンライトの雰囲気に似合わず歓声を上げた。
「あ、アサト! やーん、ちょっと、久しぶり〜〜っ」
 カウンターの向こうで両手を広げ、今すぐハグさせなさいと満面の笑みを浮かべているのはかつての同僚、コウである。
「……久しぶり。元気そうだね」
「もー、元気元気超元気。空回っちゃって大変よォ。今夜は帰さないからね」
「あはは。相変わらずだねー」
 笑いながら、ただいまとおかえりを伝え合う。店にいた時からの習慣だった。
「ホラ座って座って。すんごい美味しいの作ったげる」
「いつものヤツ?」
「の、スペシャルバージョン」
「久しぶり記念?」
「そ。おかえり記念」
 ニコニコと笑みを絶やさないコウは、話しながらも慣れた手付きで安里の好きなカクテルを作る。ロンググラスをステアする手元、細い指先に久々に見とれた。
「コウちゃんって手、綺麗だよね」
「あら、ありがと。アサトに誉められると嬉しいわぁ」
 ふふふと笑う口元、薄い唇が色っぽい。
 色素の薄いサラサラの髪はセンターパーツで中性的な顔立ちを彩る。商売柄珍しく、嗜む程度にしか煙草を吸わない肌はきめ細やかで、透き通った鳶色の瞳によく映えた。
 根っからの明るさで人を惹き付ける彼は、自由そのもののように自分に正直に生きる人だった。仲間を大事にし、セクシャリティに関係なく気を配り心を砕くのを見るたび、その愛情の深さに感心させられる。右も左も分からない自分の悩みに耳を傾け、根気強くアドバイスをし、世話を焼き。顔馴染みとなった安里が店に入ることになった時には拍手喝采で迎えてくれた、2歳の年の差以上に先輩として頼りになる存在だった。
 仕事で使う名前も彼が決めた。この業界から足を洗った今も、彼だけは自分をアサトと呼ぶ。音は同じだけれど微妙に異なるイントネーション。コウが未だにその名で呼んでくれることを安里はとても気に入っていた。
「はい、お待たせー」
 目の前に差し出されたグラス。テキーラに絞ったばかりのライムが香る。
「……ん。やっぱコウちゃんが作ったのが一番美味しい」
「だってアサトのためだもーん」
 派手なウィンクに笑った後は懐かしい話に花が咲いた。
 お互いの近況を報告し合い、会えなかった時間を埋める。近頃いい男がいないのよと嘆くコウは相変わらずで、馴染み客の話から自分の失敗談に至るまで身振りを交え面白おかしく話してくれるものだから、安里は店員だった頃のトークテクニックも忘れ、ただただ笑い転げた。
 自分を隠さなくていい場所、自分を曝け出せる相手の前はとても居心地がいい。話しているうちに気持ちが楽になるのが分かる。ここにいるだけでホッとして、日常の不満など忘れてしまう。
「はー…。やっぱたまに来ないとダメだねー」
 喉を滑るアルコールの感覚に目を細め、安里はしみじみと呟いた。
「がむしゃらに泳ぐのもいいけど、息継ぎしないと溺れるでしょ?」
「うん。危なかった。沈むトコだった」
 もう少しで限界を超えてしまうところだった。そうなったら自分がどうなってしまうのかなんて今の自分には想像も付かない。
「間に合ってよかったわ。そんじゃ一丁、水面に浮かぶまで持ち上げちゃうか」
「あはは。さすがコウちゃん。頼もしいー」
 任せなさいと力瘤を作る姿がどう見てもボディビルダーにしか見えなくて、またもカウンターに笑い声が上がる。
 琥珀色の気泡の間。
 夜は穏やかに流れていた。

ships#09 に続く