ships #10
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夜の闇を切り裂く月光。
一筋の淡い光は地上に届く前に霧散し、禍々しいネオンの渦に吸い込まれていた。
そろそろ深夜に差し掛かろうとしている。耳慣れたジャズをスローテンポなものに替えながら、コウは他の客のオーダーに駆り出されていった。見た目は笑顔でもこっそり片手で拝んで見せ、ついでに小さく舌打ちしていたのは安里だけに聞こえている。
「まったくもう、公私混同もいいトコだよ……」
苦笑し、機敏な動きを目で追い掛ける。決して広くはないカウンターの向こう、泳ぐように次々と注文に応える様は見ていて気持ちよく、彼の長い経歴を彷彿とさせた。
バーカウンターに肘を突き、安里は疲れた頭をそこに乗せる。心地よくアルコールが回った体は少しだけ痺れるようで、思考回路が回らないからこそ "楔" を鮮明に浮き上がらせた。
これは罰か。それとも咎か。
もう5年も前になるのに深く刺さった棘が抜けない。痛みは和らいでも傷が完全に癒えないのは、誰に対しても心を100%預けることが出来ない今の自分が証明している。
恐いのだ。裏切られるのが。
あの時の、あの人のように。
空になったグラスの足をコツン、と弾いて、安里は過去への扉を開けた。
あれは月の綺麗な夜───。
いつものようにドアが開いて、初めて見る客がひとり、奥のソファに席を取った。紫がかった濃紺のスーツに身を包み、襟足を伸ばした栗色の髪を後ろに撫で付けている。歳は若干上、だろうか。一目で夜の商売だとは知れたものの、自分と同じ匂いはしなかった。少なくともゲイではないだろうに、こんなところに紛れ込んだのは一体どんな気紛れか。
商売敵に対するライバル心は勿論皆持っているが、そもそもゲイコミュニティーは大きくはない。だからこそ、どんなに反発し合ってもお互いがこの世界を守ることを最優先にする。そこへ異世界の人間が客とはいえ潜り込むのは水違いというものだ。当時の自分もまた、些か違和感を覚えながらオーダーを取りにいったことを覚えている。
そこで目が合わなければ。
そこで声を聞かなければ。
今思い出しても体が震える。好きとか嫌いとかそんな簡単な区別じゃ言い表せない感情が一気に沸き上がり、身体の芯がカッと熱くなった。吸い込まれそうな瞳は相手の動揺などすべてお見通しだと一切の揺れを許さず、ただ穏やかに弓形を描く唇が安里の挙動を見守るばかりで。
ドライマティーニを、と告げた声があまりに涼やかで、一瞬反応が遅れたスタッフを聞き逃したと捉えたか、客人は身を屈ませ、その僅かな距離を縮めた。柔らかな衣擦れを間近に捉え、一気に吸い込んだ香水に立ち眩みに似た感覚を味わう。まるで噎せ返るカサブランカ。彼が耳元から離れた時には、心臓が早鐘のように打つのを自覚していた。……恋に、落ちていた。
──ノンケ好きになっちゃ、自分が不幸になるだけよ。
安里の様子がおかしいことに気付いたコウは繰り返し釘を刺した。
──やめなさいアサト。あの人はダメ。
何度も投げられる制止の声はやがて耳に入らなくなってゆく。
これがただの客ならコウもそこまで止めなかったかも知れない。相手がこの界隈では知らない者はいないと評されるクラブ『chevalier noir(シュヴァリエ・ノワール)』のホストであり、テーブル接客からベッドの相手、果ては売りと呼ばれるドラッグ類の売買まで法律の網の目を潜って手広く商売している店の、5本の指に入る人物だとしたら。
そこは "黒い騎士" を意味する店名の通り、ナイトの如く客に忠誠を誓い、その証に跪き、手の甲にくちづけし、あらゆる要望に応えてゆく。中でもフロアの真ん中で決闘をやってみせ、指名客の度肝を抜いたことで有名な長髪の青年こそ、ships を訪れた橘 涼だった。
だからこそコウは長年培ってきた情報網を駆使し、安里に危険信号を発し続けた。けれど盲目な羊は進む先が崖とも知らず、ただひたすらに向かって行く。
何度か店を訪れるようになった橘のオーダーを受けるうち、少しずつ話すようになり、好みや趣味を覚えるようになり、訪問を待ち焦がれるようになるまで大した時間は掛からなかった。毎日が新鮮で、毎日が楽しかった。誰に咎められても構わなかった。手を延ばせばすぐそこに、求めるべきものが存在していた。
言葉は温度に代わり、温度はくちづけになる。
くちづけは溜息を生み、溜息は吐息に変わる。
背があまり高くない安里は、長身の橘が腕を回すとすっぽりと抱えられてしまう。それがひどく嬉しくて、ねだるように何度も求めた。世界はふたりのためにあり、愛もふたりのためにあった。朝も昼も夜も飽きずに抱き合いながら同じ夢を見続けていた。
──否、そう思っていたのは自分だけだったのかも知れない。
別れはあまりに唐突に訪れた。
身体を重ね、想いを重ね、身も心も寄り添わせていたと思っていた相手はいとも容易く自分の前から姿を消し、ガランとしたマンションの一角に安里だけが取り残された。
心まで空洞になってしまったのではないかと思えるほどの衝撃。
1日待ち、2日待ち、食事も満足に摂れないまま安里は彼の帰りを待った。待った。待った。待ち続けた。待つのを止めたら自分は置いて行かれたと認めることになってしまうから、それだけはどうしても出来なかった。楽になる方法がそこにはなかった。
数日後、応答しない電話に業を煮やしたコウが無理矢理部屋に押し入ると、精気の抜けた姿で玄関に座り込む安里の姿があった。いつ橘が戻ってもすぐにおかえりを言うために、ベッドにも行かず横にもならず、ずっとここで待っていたのだ。
故にコウは決断を下した。彼は真実を携えていた。
──アサト。落ち着いて聞いてね。
あの人はもう、別の人のものなんだよ。
確かな情報筋が告げる、それはありふれた結末。
何度繰り返しても微笑みを浮かべるだけで、頑なに現実を受け入れようとしないのを見兼ね、コウは一度だけ手を挙げた。灯りのない玄関に乾いた音が響いた。
びっくりした赤ん坊のように、見開かれたままの瞳から涙が溢れる。止めどなく流れるそれを拭うこともせず、泣いていることすら自覚なく、安里は声もなく双眸を濡らした。いっそ喚き散らしてくれた方がどんなにマシかと思う。ショックのあまり己の感情を殺すように静かに泣き続ける安里を抱き締めながら、コウは悔しさとやり切れなさに唇を噛み締めることしか出来なかった。
秋の終わりの出来事。
想いの終着地、心は木っ端微塵に砕け散った。
ships#11 に続く
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