ships #26
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なめらかな時間。
上質のベルベッドを撫でるような心地よい感覚の中、静かなジャズの調べに身を委ねている。時折グラスの合わさる控え目な音が響く他、邪魔をするものは何もない。マホガニーのカウンターに腕を預けながら、ふたりは縮まりつつある距離感にこっそりと鼓動を早めていた。
酒で舌を湿らせた安里は、これまでのことをゆっくりと話し始める。アルコールの力を借りて少し饒舌になっていたのかも知れないと後になって思い返すのだけれど、その時は水瀬に自分のことを話せるのが嬉しくて、ただ夢中で言葉を紡ぎ続けた。
東京に自分の居場所を見付け、2丁目で働いていたこと。橘と出会い、大恋愛と大失恋を経験したこと。そんな傷を誤魔化したくて、狂ったように恋愛に溺れたこと。唯一自分を窘め支えてくれたコウの存在。そしてありのままの自分を受け入れてくれた ships ───。
「カウンターとテーブルだけの、こじんまりしたお店なんですよ。オーナーとスタッフ2人もいれば回ってしまうくらい……。でも、だからかな……凄く、居心地がいいんです」
懐かしむように目を細める司令塔代理を見つめながら、水瀬は柔らかに首を傾げる。その動きにつられて綺麗な焦げ茶の髪がサラリと零れた。
「みんな本当にいい人達で、あったかくて、仲間想いで……。お店も人も、俺の大事な宝物です」
穏やかな笑みを浮かべる傍らで頷く気配。だが、返されたのは予想を大きく超えた発想だった。
「……君の出発点か。行ってみたいな」
「は!? ちょ…、水瀬さん、本気ですか!?」
司令塔が常人から見たら半端なく肝の据わった人物であることは、先程のゲイ発言をサラリと受け止めたことで知れていた。だがこの馴染み様はどうなのだ。自ら進んでその世界に飛び込もうとする姿はもはや、ただの興味本位だけではないと勘繰ってしまいたくなる。都合よく解釈してしまいそうになる己を制し、深呼吸を繰り返しながら振り仰ぐのだけれど、それでもただの聞き間違いではないことも、面白半分に首を突っ込もうとしているわけではないことも、向き合った水瀬の表情から知ることが出来た。
もう一度、ゆっくり息を吐き出して。覚悟を決めて。
「バーって行ってもその、こういうところじゃなくて……」
どう説明したものかと安里が考え倦ねていると、そんな僅かなハードルなどお見通しだとでも言うように、水瀬は口端を持ち上げて笑って見せた。
「いい酒が出て、いい音楽が掛かっていて、いいスタッフがいるところだろう」
「勿論です」
「じゃあ決定だな」
ポカン。
上手いこと丸め込まれ、口を開けたのを思い切り笑われる。
頭でも口でも天下の戦略マネジメント開発部に敵うわけはなかったのだ。ましてや相手は手腕を買われ、若干30歳にして課長補佐、プロマネの地位に就いた人物。実にあっさり掌の上で転がされ、ついでに確約まで取り付けられ、安里はもうどうにでもなれと手元の酒をグイと煽る。そんな様子を拗ねたと取ったか、司令塔はなおも肩を震わせた。
「水瀬さん、笑い過ぎっ」
「……すまない。いや、悪いとは思ってるんだ」
拳で口元を押さえ、今や必死にあさっての方を向いてやり過ごそうとする水瀬の横顔を見ながら司令塔代理は頬を膨らます。けれど、こんな風な遣り取りが出来るようになったのは実はごく最近なのだという事実に思い至り、ふと目を細めた。
視線の先、フレンチグレーのスーツに包まれた肩の稜線は出会った頃と何も変わらないのに、あの時から驚くほどたくさんの表情を見、たくさんの声を聞いた。ストイックとさえ評された彼から与えられるそれに初めは戸惑いもしたけれど、逆に少しだけ自惚れてもいいのなら、水瀬のこんな姿を目にするのはきっと自分だけ。彼がそれだけ気を許し、心を預けてくれている証に、安里は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
同時に、水瀬もまた、自分だけに己を晒してくれた相手への想いを強くする。ふたりともが少しずつ手を伸ばし、少しずつ歩み寄り、心はゆっくりと溶け合おうとしていた。
ships#27 に続く
ships #25
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話はやがてプロジェクトチームの解散に移った。
使命が終われば任を解かれるのは始めから分かっていたことなのだけれど、また繰り返す日常の中に心の支えを失ってしまうようで落ち着かなかった。
「寂しくなりますね」
グラスの足をそっと撫でながら呟く。今となっては自分の中で大きな位置付けを持っていたプロジェクトそのものだけではなく、水瀬との関わりもこれでなくなってしまうのかと思うと胸が痛んだ。けれど、それは杞憂だと告げるように傍らで司令塔が笑う。
「よければ、たまに飲まないか」
これを同じ気持ちだったと思ってもいいだろうか。
これを特別なものだと受け止めてもいいだろうか。
誘いが嬉しくて笑みを返す安里に対し、水瀬はふと口元に手を当てた。
「……あぁ、だが君の時間を取ってしまっては、君の恋人に申し訳ないな……」
それはいつかの電話の相手。やはり水瀬は誤解していたのだ。
「あれは本当にそういうのではなくて……」
「昔の彼女だろう」
「いえ、違うんです」
事実を追い掛けようとする彼の表情はあくまで穏やかで、その心中が焦げ付きそうな痛みを伴っていることなど知る由もないまま、安里は解決の糸口を探そうと藻掻き続ける。だが、これ以上はどうやっても真実を伝えることは出来ないと判断し、思い切って打ち明けた。
「……昔の彼氏、でした」
前を向いたまま視線を合わせることなく告げる。振り向いて目を逸らされることが恐かった。
1秒経ち、2秒経ち……言葉のない時間がどんどんと重みを増してゆく。拒絶しているのでないと空気は伝えているけれど、それさえ受け入れ難いギリギリのラインなのかどうかも分からない。ただ冗談で流されることが、或いは聞かなかったことにされることが恐くて、内面を晒した自分を置き去りにされたくなくて、安里は唇を噛み締める。
ふと、水瀬が息を吐いた。それは彼が何かを言おうとしているのだと分かった瞬間、安里は先に口を開いた。
「気持ち悪いですよね、ゲイとか……」
やっぱり気にしないでください、と付け加えようと向き直った先、そこにいたのは真剣な表情の司令塔だった。
「誰かを想うのに気持ち悪いなんてない」
真直ぐにこちらを見つめる双眸の光は痛いほど強く、瞬きすら忘れる。一瞬遅れて自分が受け入れられたことに気付いた安里は、嬉しいという感情さえ上手く整理することが出来ないまま惚けた。
「水瀬さん……」
生まれて初めて、同性愛者以外に自分のセクシャリティを告白した。しかも、自分の好きな相手に。受け入れられるなんて思わなかった。これ以上ないほど願っていたけれど、そう上手くいくはずないと思い込んでいた。嫌われると、或いは避けられるかも知れないと怯えてすらいたのに。
「……そう言ってもらえて俺、上手く言えないですけど……たぶん、凄く、嬉しいんだと思います」
「自分のことなのに、たぶん、か?」
苦笑する横顔がこんなにも胸を高鳴らせる。
「だって、そんな、こんな展開予想外で心の準備も何も……」
「やっぱり君は面白い男だ」
そう言って水瀬はこちらを向き、破顔した。それは初めて見る、彼の満面の笑みだった。
「水瀬さんこそ、変わり者ですよ」
いきなりゲイであることを告白されて、普通に受け止めてしまえるなんて。それに驚く様を見て面白い男だと表現すること自体、卓越した精神の持ち主だと知らしめる。
「俺にそんなことを言うのは君ぐらいだな」
「皆知らないんですよ。水瀬さん一見恐いから」
「恐い!?」
「あはは。その顔見せたらきっと皆びっくりしますよー」
肩を震わす安里に納得いかないとばかり眉を寄せるのがおかしくて、苦笑を堪えることが出来ない。ひとしきり笑った後息が苦しいと胸を押さえれば、水瀬は自業自得だと拗ねて見せた。
今日一日でたくさんの表情を見、たくさんの言葉を交わした。それが嬉しくてこんなにも自分は饒舌になるのだと知ったら、彼は何と言うだろうか。
「ねぇ水瀬さん。もう少し話してもいいですか」
「あぁ。聞かせてくれ」
少しずつ距離を縮めながら、少しずつ心に触れてゆく。
穏やかな夜がふたりの甘く疼く想いを見守っていた。
ships#26 に続く
ships #24
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最後の結果発表を待つばかりとなっていたプロジェクトは、コンペ採用という華々しい成果を以て無事終了となった。
一時は版権問題でプレゼン棄権とさえ言われただけに、全員一丸となり期日までに間に合わせたこと、慌ただしく戦場に向かう水瀬を送り出したこと、辞職するという彼を泣きながら引き止めたこと、最後まで一緒に夢を見たこと、そのすべてを懐かしく思い出す。それは安里だけでなく、最後のプロジェクトミーティングの席で結果を聞いた誰もの胸に、大小の差はあれ去来するものだった。
和気藹々とした空気の中、誰からともなく打ち上げの声が上がり、異論を唱える者のない席上はあっと言う間に週末の飲み会の議論に移る。そのスピード感に水瀬は苦笑を浮かべ、安里はプレゼン前日の高揚感を思い出していた。
「……お疲れさまでした」
一団が輪になってあの店がいい、この店がいいと躍起になるのを遠巻きに、安里は司令塔に声を掛ける。
「君も。……それにしても凄い団結力だな」
「でしょう。あの日もこんな感じでしたよ」
穏やかに笑う司令塔代理に水瀬は目を細めた。
「最初は反発も大きかったと聞いている。君がまとめてくれたそうだな」
「俺は何も。皆が本気でやりたいと思ってくれたからですよ」
唇を弓形に持ち上げて功労を労うようにメンバーを見遣ったその時。
「おーい、安里。あ、水瀬さんも。宴会、思い切って『藤乃』のコースにしようと思うんスけど、松と寿、どっちがいいスかね?」
遠くから小沢が振り返った。社運を掛けた一大プロジェクトの成功、恐らく飲み代は経費で落とせることを知っているのだろう。敷居が高かった料亭のコース料理を味わえるという浮き足立ちっぷりに、悪いと思いつつふたり揃って吹き出した。
「どっちでもいいよ。任せるー」
安里が返しながら、「でも寿って結婚式用じゃないの?」と首を捻るのを見、水瀬が再度肩を震わせる。プロジェクト発足時からは考えられない光景だった。
概ね計画がまとまったところで定時を告げる鐘が鳴る。善は急げと金曜日を待つことなくその日のうちに宴会に雪崩れ込んだ一行は、衰えることのない高揚感に包まれていた。
メンバー全員で結果を出せたこと、そして何より、仕事でこんなにも達成感を味わえるなんてとしきりに繰り返す安里に、皆嬉しそうに笑みを返す。普段の業務では交差しない関係。それが偶然から集められ、言葉を交わすようになり、時に反発し、時に助け合い、固い絆で結ばれたからこそ出来たこと。だからこそ嬉しかった。お互い同じ気持ちだった。
座がお開きになった後も去り難く、仄かに回ったアルコールの助けを借り安里は思い切って声を掛ける。
「水瀬さん。……この後時間があったら、どこか寄りませんか」
迷うか、或いは穏便に断るかと思われた水瀬は、けれどあっさり頷いて見せた。
「実は今、俺もそう言おうと思っていたんだ」
先を越されたな、と笑う姿に胸が高鳴る。
解散後駅に向かう皆を見送って、ふたりは反対方面へと足を向けた。二次会と称してカラオケに流れる連中もいたが、トップふたりのしみじみとした顔を見て、敢えて誘わずにいてくれた。
何本か細い筋を抜けた先、重厚な扉を開ける。ドアベルがカラン、と綺麗な音でふたりを迎えてくれた。
地下にあるという水瀬ご推薦のその店は、間口に反して意外に広く、ギリギリまで落とされた照明が時の経つのを忘れさせる。ウィークデーだからか客もそう多くなく、極力寡黙を貫くバーテンダーの接客は見事に洗練されていて、落ち着いた雰囲気の中、ふたりだけの世界に身を委ねた。
カウンターに席を取り、安里はラム、水瀬はウォッカベースのカクテルをオーダーする。
「……プロジェクトの成功に」
グラスを持ち上げると、司令塔が苦笑した。
「それはさっきも祝ったじゃないか」
「あ、それもそうですね……。じゃあ、折角なので、プロマネに?」
そう言うと尚一層眉間の皺を深くするのが微笑ましい。普段こんな表情を見たことがなかったのだけれど、この人は案外かわいい人なのかも知れないと安里は目を細めた。
「それなら、水瀬さんのことをよく知ることが出来たプロジェクト自体に感謝しましょう」
「……あぁ、確か君は俺を嫌なヤツだと思っていたんだったな」
「会うたび睨まれてちゃ、誰だってそう思いますよ」
苦笑しながらグラスを合わせる。ふわりと香るピーチシャーベットが火照った体に心地よかった。
「俺の負けず嫌いを煽ったのは水瀬さんですからね」
「そうなのか。じゃあ、俺はプロジェクトに貢献出来たってわけだ」
「もー。どういう理屈なんですか」
「ハハ。悪い悪い」
司令塔代理にも乾杯しよう、そう言って改めてグラスを持ち上げてみせる。
すい、と横に引かれた薄茶の瞳。眼鏡越しにでも分かる、その優しい色を見つめ、あぁ、この人が好きだと思った。
気付いてしまえばこんなにも単純で、純粋で、呆れるほど真直ぐな想い。曇りのない心はまるで真夏の空のように、ただ、水瀬だけを見ていた。
ships#25 に続く