Monthly archives

 2007年08月 

ships #29 

←前話へ

 ships からの帰り道。
 肩を並べて歩く歩調は緩やかで、アスファルトにアンダンテのリズムを刻んでいる。派手なネオンを避けるようにぐるりと歓楽街を迂回したふたりは、酔い覚ましを口実にゆっくりと夜の散歩を楽しんでいた。
 離れがたいと言ったら、この人は何と言うだろうか───。
 そんな本心を押し止めたまま高層ビルを振り仰ぐ安里に穏やかな声音が重なる。
「……今夜は楽しかった」
 向き直った水瀬は逆光のためその表情を伺うことは出来なかったけれど、雰囲気で彼が微笑していることは分かった。
「よかった。……引かれたら、どうしようかって思ってました。実は」
 あはは、と軽く笑い飛ばした安里の思惑などお見通しだとばかり、水瀬は少し首を傾げる。
「そんな心配をしていたのか」
「だって、」
「そんなわけない」
 言葉尻を奪う言葉。
「そんなわけないよ……」
 繰り返される言葉。重みを与えられたもの。
 それ以上は何も言わず、再び歩き出した司令塔の後を追うように歩を進める。高い肩越し、首都高の灯りが街路樹の枝から漏れるのがやけに印象的に映った。
 静かな夜。
 時折行き過ぎる車のヘッドライトが横顔を照らし出す他何もない。夏の名残の湿った風が頬をゆっくりと撫で上げるばかりで、これが夢か現実かその境目が一瞬分からなくなる。幻想的と呼ぶにはあまりに短絡的で、生々しいと言うにはひどく浮世離れしている不思議な空間。流れる空気を押し止めるように、ポツリと呟く声があった。
「君が人から好かれる理由が分かったな」
「な、ん……ですか、急に」
「君が自然体で笑うからだ。君の隣は、居心地がいい」
「水瀬さん……」
 ビルに反射した月光が星砂のように降り注ぎ、ふたりの輪郭を暈かしてゆく。その中にあっても唯一見失わずにいられたのは闇に煌めく双眸だった。
「水瀬さんこそ……。一緒にいて、安心感があります」
「人からそんなことを言われるのは初めてだな」
「仕事が出来て、いつも冷静で、的確で、凄い人だと思います」
「オイオイ、誉めても何も出ないぞ」
 苦笑しながら肩を竦めていた水瀬は、だが次第に昔を思い出すようにゆっくりと目を細めてゆく。
「そう言ってもらえて嬉しいのだと、君に初めて気付かされた。君にはいつも助けられてばかりだ」
 ポツリと洩らす本音。恐らく社内の誰もが聞いたことのないもの。
「あの版権騒ぎの時、どんなに心強かったか分からない。君がいてくれなかったら今日はなかった」
「そんなこと…」
 ない、と言い掛けた安里を焦げ茶の瞳が真直ぐに射抜く。
「言わせてくれないか」
 そうしてふわりと微笑んで。

「かけがえのない存在なんだ。……安里、ありがとう───」

「……っ」
 特別視されているという確信に切なさで胸がキュッとなる。泣きたい気持ちと幸せな想いが入り交じり、安里は胸の奥に込み上げる熱いものを我慢することが出来ない。目尻にじわりと溜まる涙を必死に堪え、最上の笑みを浮かべた。
「これからも、いい仕事しましょう」
 そして願わくばこの次も、最高の結果を手に入れましょう。
「あぁ」
 ふたりで、共に力を合わせて。
 差し出された右手を取って、絆という名の握手を交わす。
 月が祝福するように天空を彩っていた。

ships#30 に続く

ships #28 

←前話へ

 フレッシュライムの爽やかさを受けてジンが軽やかに踊る、懐かしい香り。
 傍らの水瀬に目を向けると、すっかり場に馴染んだ彼は穏やかな瞳で店内を見回していた。まるでそこが長く帰らなかった懐かしい我が家であるかのように、優しさを込めた眼差しはすっと細められてゆく。彼がここを気に入ってくれた証拠だった。
「……いらっしゃい」
 ふと声を掛けられ顔を上げると、そこには穏やかに笑う梶原が立っていた。
「梶原さん」
「やぁアサト。……こちらが水瀬さんですね。こんばんは、オーナーの梶原です」
「お邪魔しています」
 ふたりが来ることは疎か、この分だと水瀬との馴れ初めから彼のセクシャルに至るまでかなりの情報がコウから流れているらしい。途端ドキドキと緊張する安里を余所に、司令塔のショットグラスが空いていることを確かめたオーナーはさり気なくそれに手を伸ばした。
「こういうところは初めてでしょう。大丈夫ですか」
 早いペースで杯を干すのを見、緊張しているのかと心配した梶原を安心させるように、水瀬はゆっくりと首を振る。
「ここは居心地がよくて、自分でも驚くほど馴染んでしまったようです」
 通りのことはまだまだ勉強が必要なようですが、と道中の出来事を話す穏やかな声音に耳を傾けながら、オーナーは再び笑みを取り戻した。
「……あぁ、そういえば入って来る時に気が付いたんですが、ドアに綺麗な船のレリーフがありましたね。店名に因んでいるんですか?」
「ハーイ、よくぞ気付いてくれましたー!」
 と、突然戻って来たコウが会話の先を掠め取る。携えていた空のビアグラスを流しに運ぶと、隣の梶原に向かってニッと笑った。
「ships の名前には、アツーイ想いが込められてるのよねー」
「まったく……早くグラス洗いなさい」
 茶々を入れるコウを窘めつつも、苦笑を浮かべた梶原は改めて水瀬に向き直った。
「この店全体が、船をイメージしてるんですよ」
 静かな声は BGM の間を縫って心に響く。
「……ゲイと言えば今でこそ認知度は上がってるけれど、まだまだ世間からは風当たりの強い存在でね。僕達は日常の何気ない場面でいつもそれを感じている。でも、そんな逆境に負けないで、みんなが自分らしく生きられる世界に向かって漕ぎ出す船を造ろうと思ったんです」
 そしてひとりひとりがその船── ships であるのだと。
 話に感じ入った水瀬が深々と息を吐き出しているその脇で、場の盛り上げ役を買って出たコウは派手なウィンクで混ぜっ返した。
「実はオーナーの趣味が釣りだからってのが最有力説なんだけどネ」
「……コウちゃんそれホント!?」
「コラ、勝手な噂を流すんじゃない」
 梶原のツッコミなど何のその、コウにとっては日常茶飯事である。
「だって聞いてよ。この前なんて、誰かさんが泊まりがけの釣りに行くからってアタシ48時間ぶっ通しで働かされたのよー。ひどいわよねー」
 睡眠削るなんてお肌の敵よと嘆いて見せるわりに、辞める素振りひとつなく何年もここで働いているのは、コウにとっても大事な場所だからに他ならないのだ。
「……ま、いつかはアタシがココ乗っ取るんだけどね?」
 そんな風に得意気に胸を張ってみせるから、3人は一拍遅れて吹き出すしかない。ふと気になって安里は口を開いた。
「そしたらお店の名前は変えるの?」
「まさか。ships のままよ」
 首を傾げるメンバーに向かって、コウは人差し指を、ピ、と立てて見せた。

「ナイスミドルとナイトクルーズってことで♪」

「そっちか……」
 溜息の二重奏に水瀬の苦笑が重なる。鮮やかなウィンクが夜を綺麗に締め括った。

ships#29 に続く

ships #27 

←前話へ

 打ち上げでの遣り取りを報告するや否や、電話の向こうのコウは大変な盛り上がりようだった。
「それってそれってそれって、絶対アサトのこと好きだよねー!」
 黄色い歓声が鼓膜を劈く。キーンという耳鳴りに目を閉じながら、とにかく落ち着いてと促すもののそんな言葉などお構いなしにコウは口早に捲し立てた。
「だって考えてもみなよ。男同士ふたりっきりで、イキナリ相手にカムアウトされて、『はい、そうですか』なんて普通言えないわよ!? よっぽど好きじゃなきゃ受け止め切れるわけないじゃない。……あーん、ノンケのくせになんてイイ男なのかしら!」
 羨ましがる口振りに毒気を抜かれ笑ってしまう。
「……コウちゃん、反応良過ぎ」
「だってアサトの好きな人のことだもーん。テンションだって鰻登りよ!」
 電話の向こうでガッツポーズをしているのが目に浮かぶ。恐らく今は開店前の準備をほったらかしにして目を輝かせているに違いない。
「えーとね、そんで1回お店来てみたいんだって」
「……へ? ゲイバーだって知ってる!?」
「勿論言ったよ。止めようと思ったよ。でもねー、『いい酒が出て、いい音楽が掛かっていて、いいスタッフがいるところだろう』って言うんだもん」
「あっはっは! そりゃアサトより一枚上手だわ」
 笑いながらもその実まんざらでもないのか、そりゃウチしかないわよねぇと上機嫌で続けるのを聞きながら安里は予約を取り付ける。
「取り敢えず金曜日に一緒に行くから。カウンターの奥入れてくれる?」
「リョーカイ。他のお客さんに邪魔させないように、ついでにもう一席余分に取っとく!」
 豪快な仕切を見せる相棒にまたも吹き出し、祝福に感謝し、礼を言って通話を切る。
「さて、と……」
 これでいよいよ後には引けなくなったことにそっと深呼吸を繰り返した。
 水瀬が ships を訪れたいと言っていたことは事実だし、それを叶えたいというのも素直な気持ち。だがそこは自分を洗いざらい晒す古巣であり、コウや梶原に彼を紹介することは即ち結婚相手を親に会わせるようなものなのだ。嬉しいやら照れくさいやら複雑な心境を持て余したまま迎えた金曜の夜───熱烈な歓迎に水瀬が一番最初にしたのは爆笑だった。
「まるでサプライズパーティみたいだな」
 先導する安里にこっそり洩らした言葉が面白くて振り返る。面食らっているかと思いきや、相変わらず肝の据わっている司令塔はこの状況さえ楽しんでいるようだった。
「さ、座って座って。今夜はお祝いしなくっちゃ!」
 そう言って景気づけにシャンパンを抜いてしまうあたり、やはりコウのテンションは尋常ではない。小気味いい音を立ててフルートグラスに琥珀を注ぎながら、終始笑みを絶やさないバーテンダーは嬉しくて仕方ないオーラを全身から漂わせていた。
「よし、じゃ、乾杯しよっか。……アサト、おかえり。水瀬さん、ようこそ♪」
「ただいま、コウちゃん」
 軽くグラスを合わせ、一口飲む。喉を滑り落ちる芳醇な香りにフワリと身体が浮いたように思えた。
「それじゃ改めて自己紹介しとこうかしら」
 コウがいそいそといった風にシナを作ると、既にリラックスしている水瀬はまたも吹き出す。ここでは彼も仕事の仮面をあっさり脱ぎ捨てていることに驚き、そして嬉しかった。
「コウです。アサトがいつもお世話になってますー」
「水瀬です。彼がここに初めて来た時に、ジンライムを出してくれたのがあなただと伺っています」
「ちょっとアサト、そんなことまで喋ってんの!?」
「え、あ、いや……芋蔓式にいろいろと……」
 もう恥ずかしいわよーとよく分からない理由で頬を赤らめるコウを余所に、傍観者かつツッコミ役というオイシイポジションを獲得した水瀬に恐いものはない。
「彼は、あなたにたくさん助けられた、あなたのことを大事な人だと話してくれました」
「わーわーわー。コレ何の会!? 一体どんな羞恥プレイ!?」
「ちょっとコウちゃん勢いに任せて何言ってんのっ」
 慌てふためくふたりの遣り取りに司令塔は笑い過ぎて涙を拭う。一頻り場が落ち着きを取り戻すまで、実にグラス一杯分のシャンパンを必要とした。
「……いやー、でもさっきのはちょっと嬉しかったわ」
 改めてオーダーに腕を振るいつつ、コウは手元に視線を落としたまま口端を持ち上げる。
「アサトの助けになれてたのね」
 ハイどうぞ、と差し出されたいつものジンライム。水面を目指し瞬く間に駆け上がってゆく気泡を逆になぞりながら、安里はしっかりと頷いた。
「うん、勿論。さすが『名は体を表す』だよね。……あ、水瀬さん、コウちゃんの本名は幸せを助けるって書いて『幸助』っていうんですよ」
「あぁ、それなら生まれながらのキューピットだな」
「……!」
 自然に零れ落ちるようにサラリと応えた言葉に、異様に反応したのはむしろバーテンダーの方だった。
「水瀬さんって無意識に殺し文句言うタイプ!?」
「え…?」
「あ、いいですいいです。コウちゃんのことは気にしないでください」
 今ちょっとテンション上がり過ぎて宇宙と交信してるだけですから……と訳の分からないフォローをしつつ、場を治めつつ、そうこうするうちに復活したコウと苦笑し合った。
「まぁ、誰かの幸せをお助けするのが使命なら、アタシの性に合ってるんだけど」
 最近はアサト専門だったんだけどもう卒業かしらねと呟きつつ、コウはふと入り口に顔を向ける。入って来た数人の客にテーブルを勧めるため、ちょっとゴメンね、と言い置いて席を外すのを見送りながら、ふたりはようやく一息吐いてそれぞれのグラスに手を伸ばしたのだった。

ships#28 に続く