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 2007年08月 

ships #17 

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 奇跡が起きたのは次の日の午前11時。
 版権問題によるデザイン差し替えがすべて完了した瞬間、誰もそれを俄には信じられなかった。まさに危機一髪。手分けして数人で包装を行うと、プレゼン会場へと赴く水瀬他数人の戦略部隊を送り出し、バタバタと慌ただしく仕事を終える。
「よかった───」
 正面玄関に横付けされた黒塗りの車が遠く見えなくなるまで見送って、安里はホッと溜息を吐いた。後は運を天に任せるだけ。昨日まではコンペに勝とうと言っていたけれど、この無謀としか言い様のない大仕事をやり遂げたこと、それだけでもうよかった。それくらい充実感があった。
 とはいえ、これから司令塔が向かう道のり。健闘を祈らずにはいられない。
「水瀬さん……後は任せましたからね」
 まるでいつか彼がそう言ったように、今は遠い背中に向かって。



 一難去ってまた一難と言えばいいのか。
 プレゼン自体は無事終了したものの、極力極秘のうちに行われた版権問題の件が一部に情報流出したことにより、上層部及び該当部署では様々な憶測が飛び交っていた。
 仕事の規模、納品時のチェック体勢、付き合いの長い下請け業者。
 それぞれが複雑に絡み合い、その後の大掛かりなフォローを必要としたこと。その莫大なコストパフォーマンスたるや目の前に数字を突き付けられなくても分かる。この点はたとえコンペを勝ち抜いたとしても許されるものではない。結果オーライではないのだ。すべての責任は追及され、その焦点となるであろう人物は当然の如く両肩にのし掛かる重みを覚悟していた。
 定例ミーティングでプレゼン時の報告と今後のスケジュールについて連絡をまとめた水瀬は、解散を告げると同時に会議室を出た。自分の中で出した結論を実行に移すために。
 足早にフロアを横断し、エレベータへと向かう。
 メンバー達は結果待ちとなったプロジェクトに安堵し、その多くがまだ会議室内に留まっていた。出来ればこのまま顔を合わせずに階上へ行ってしまいたいと願っていた水瀬は、けれどエレベータの到着を待つことなく覚えのある声に呼び止められた───安里である。
「水瀬さん!」
 通る声。
 人混みを掻き分けこちらにやって来るのを見守りながら、水瀬は自分が迷っていることを知る。それはこの決断ではなく、その内容を彼に知らせること。いっそ最後まで黙っていようかと眉を寄せた時、エレベータの到着を告げるベルが鳴った。
 先に乗り込んだ水瀬が振り返り、ドアを挟んで向き直った両者は一瞬無言で対峙した後、安里が足を踏み入れることで密室は静かに閉じられてゆく。行き先のボタンを押すでもなく、片やひどく静かに、片や自己制御ギリギリのところでただ向かい合うに任せていた。
 先に口を開いたのは安里だった。
「聞きました。……水瀬さん、辞職するって本当ですか」
 それはつい先程。戦略マネジメント開発部のトップがサラリと口にしていた自主退社の文字に血の気が引いた。
「……情報が早いな。…………黙っていようと、思ったんだが」
 否定する素振りなど微塵もなく、苦笑すら浮かべてみせる水瀬に、安里は怒りを禁じ得ない。それが何故なのかは分からないけれど、今は止めなくてはとそれだけを思った。
「どうして辞めるだなんて……」
「司令塔は責任を取るのが仕事だからな」
「あれは外部の問題じゃないですか」
「そうだとしても、通常ルートを逸脱して進めた結果があれだ。完全に俺の采配ミスだった。……君も、指摘してくれていたのにな」
 目を伏せる横顔は自嘲に歪んでいる。
「メンバーへ、そして会社への影響を考えれば、辞職は当然だ」
「そんなことありません!」
 語尾を奪った。怒りは頂点へと達していた。
「そんな簡単に終わらせたりしないでください」
 あぁ、失意の眼差しがかつての自分にダブって見える。
 すべてを諦め、すべてを放り、自分の心を捨てようとしていたあの頃。だからこそ安里は力尽くで水瀬を止めることしか思い付かなかった。
「水瀬さん俺に言ったじゃないですか。このプロジェクトを成功させるんだって。それがきっと未来に繋がっていくんだって。信じてるって。……あれは、全部嘘だったんですか」
 水瀬が奥歯を噛み締める音が狭い室内に響く。司令塔代理はただ夢中で吐き出すように思いを告げた。
「俺、水瀬さんのこと尊敬してます。最初は……嫌な人かもって思ったけど……でも、一緒に仕事をしてるうちに、凄い人だって思いました。水瀬さんに後ろ任されたことが嬉しくて、水瀬さんのこと思い出して、ようやく漕ぎ着けたプレゼンなんです」
 隠すものなどなかった。飾る言葉などなかった。洗いざらいブチ撒けながら安里は目の前が滲んでくるのを止めようともせず。
「簡単に捨てたりしないでください。諦めたらそこで終わりなんです」
 感情が涙となって頬を伝う。
「司令塔なら……みんなの思い、見届けてください」
 全員でありったけの力でやり遂げた仕事の行く末を。そして。
「最後まで見ましょうよ。夢」
 どんなに辛くても明日へ繋がる橋渡しだと信じているからこそ。
「───分かった」
 その言葉が届くまで、どれだけの時間があったろう。
 実際にはほんの数秒のことだったのかも知れないけれど、息を飲み、答えを待つ安里には数十分にも思える長い逡巡だった。
「すまなかった……」
 自分の荷を半分負ってくれていた安里へ、そしてすべてのメンバーへの思いを込めて。
「これは、君に預けておこう」
 そう言って取り出されたのは一通の白封筒。それが辞表だと知るや否や、安里はあろうことか目の前でビリビリと破いて見せた。
「こうすれば、水瀬さんは辞められなくなります」
 決意の漲る目で真直ぐに見返せば、今度は司令塔が派手に吹き出す。
「君は本当に……面白い男だ」
「……な、俺は……」
「あぁ、分かっている」
 肩を震わせる水瀬に物申そうと再度開き掛けた口の動きを止めたのは、思い掛けない一言だった。
「実は、君をこのプロジェクトに推したのは俺なんだ」
 そっと告げられたセリフに安里は返す言葉も持たないまま、ただ黙って司令塔を見上げる。焦げ茶の瞳が眼鏡越しに笑っていた。
「君なら出来ると思った。そしてそれを見せてもらった。……先見の明だったな」
「水瀬さん……」
 ザワリ。
 胸の奥が揺さ振られる。一陣の風に舞い上げられる。
「やはり、君でよかった」
 更地を浚った突風は、吹いて初めて、そこに何もなかったわけではないことを示した。

 柔らかな声に安里は戸惑いを覚え、気丈な涙に水瀬は拳を握る。
 けれど理由を自覚せぬまま、運命は次章へと歯車を進め───。

ships#18 に続く

ships #16 

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 現場の混乱は予想以上だった。
 無理もない。既に準備は急ピッチで進んでいる真っ最中、しかもプレゼンは明日の午後に迫っている。いくら下請け業者のミスであっても受け入れ処理をした都合上、こちらで責を負わなければならない。今更辞めることも出来ず、かといってこのまま強行するわけにはいかない、まさに背水の陣。
 水瀬の振るった采配に、今更のように異を唱える者もいた。何とか現場を立て直そうと奔走する安里に対して疑問視する声もあった。けれどそんな冷たい視線には目もくれず、司令塔の代役を預かった安里は声を嗄らして訴え続けた。
「今からの差し替え、時間的に厳しくないわけないです。でもそれしか方法がないんです。手分けしてやれるだけやりましょう」
「そうは言っても、ベースデザインの問題だろ? ちょっとなぁ……」
「金型から起こし直すとなると、プレスの関係でかなり難しいんじゃないのか?」
 各方面からの難色を示す声が雨のように降り注ぐ。それでも。
「お願いします。あとちょっとなんです。もう一歩なんです。やりましょうよ」
 安里は繰り返し繰り返し、頭を下げ続けた。
 各人の反応の理由など自分がよく分かっている。こんなにタイトなスケジュールで押し通そうというのは土台無茶な話しなのだ。けれど無茶でも無理でもやらなければならない時があり、それが今だと確認しているからこそ薙がれそうになるのを懸命に堪え、ひたすらに言葉を重ねた。
「どんなに苦しくても、間に合わせてこそプロの仕事だって、以前社長も言ってましたよね。……折角ここまで頑張ったんです。足掻いてみませんか」
 ここ数ヶ月、寝る間も惜しんで残業を重ねて、ようやく形になりそうな想いだからこそ。
「明日の午後に、プレゼンしませんか」
 それを形にして昇華したい。ただ、それだけ。
 ひたすらに訴える姿に、一度は奈落にまで下がった志気が少しずつ少しずつ上向いてくる。状況は何ひとつ進展していないのに、目標に向かう心意気だけでこうも人は変わるものかと思った。
「…………そこまで言うかよ」
 振り向けば、呆れたように笑う小沢の姿があった。
「おまえがそんなに入れ込んでたなんて知らなかった。……でも、一理ある」
 立ち上がった同僚はゆっくり前に進んで言った。
「諦めて潰すのは簡単だもんな。こんなデカイ仕事、つまんない理由でポシャらすのは勿体ないじゃん?ってこと」
「小沢…」
 反対勢力に押されていた安里に追い風が吹いたことで、それまでの空気が掻き混ぜられる。一掃された室内、見渡せばメンバー全員が頷いていた。
「……しょうがない。付き合うぜ」
 そんな風に笑ってくれるから。
「絶対プレゼンしましょう。それでコンペ勝ちましょう」
 素直な気持ちを打ち明けられる。
「うっわ、こいつ大きく出やがった」
「他に何社やると思ってんだよ」
「でもそれぐらいの方が気持ちいいよな」
「それは言えてる!」
 指さし笑われて、しょうがないなと小突かれて。我が儘を聞いてくれた仲間に感謝して。
「死なば諸共、よろしくお願いします!」



 その後、会議室は戦場と化した。
 メンバーすべてが通常業務を放り出し、泊まり込みを覚悟で各所に詰める。デザインを修正し、出力を出し直し、模型の修正規模を見積もりながら、安里はひたすらに記憶の中の水瀬の後ろ姿を追い掛けていた。
 こんな時、あの人だったらどうするか。
 こんな選択肢、あの人だったらどう切り抜けるか。
 自分にはない卓越した判断力をいつも間近で仰ぎ見ていた。その経験が少しでも活かせるならと神経を研ぎ澄まし、心の声に耳を傾ける。
 昨日の水瀬以上の緊張感。
 けれど今頃、最上階で幹部から矢のような非難を浴びているであろう彼を思えば、こんな重圧は苦しくはなかった。ただひたすら、頑張りましょうと心の中で唱えていた。上にいる彼に向かって。下を支える仲間に向かって。
 窓の外、直射日光を投げ付けていた太陽が沈む頃、現場はかつてない一体感に包まれていた。
 極限状態の高揚感と言おうか、端から無茶なスケジュールだけに、ひとつひとつ仕事が達成され、持ち込まれるたび仲間から英雄扱いで拍手喝采を浴びる。それを照れくさそうに笑う者、大袈裟に褒め称える者、入り交じってのトランス感。安里はその中央でアップ待ちの案件をチェックしながら、殊更大声で仲間を労い続けた。
 そんな様子をドアの影から見守っていた水瀬は、彼がメンバー同士のパイプ役に徹し、立派に体勢を立て直してくれたことに安堵と感謝の念で目を閉じる。
 正直、混乱したまま動けなくなっているかと思っていた。それは安里の力不足という意味ではなく、純粋に時間的制約と志気の低迷───即ち、己の犯した判断ミスのせいで、最悪プロジェクト失敗を招くことを覚悟していた。それが戻ってみればこの賑わい。不可能を可能に変えるその手腕を見、背中を預けた男の有言実行を見、水瀬は胸を詰まらせる。
 掛ける言葉もなく、立ち尽くしていたその時、呼ばれたように安里が振り返った。
「あ、水瀬さん!」
 一斉にメンバーが顔を上げる。それを見渡し、水瀬は真直ぐに頭を下げた。
「すまない。皆には大変な思いをしてもらっているが……」
 深々と頭を垂れる司令塔は野次こそ覚悟していたが、返された言葉は労いだった。
「何言ってるんですか。俺達は運命共同体でしょう」
「……え…?」
 目を上げた先、柔らかに笑う安里がいた。

「おかえりなさい、水瀬さん」

 さぁ、もう一踏ん張りしましょう。
 拳を握って見せる司令塔代理に苦笑を返しながら、水瀬は胸の奥が熱くなるのを自覚する。仕事に対する感謝だけではない───単純に、ただ純粋に、彼がいてくれてよかったと心から思った。
 安里の存在が自分の中で少しずつ大きくなっていることなど気が付きもしないまま、水瀬は再び戦場の司令塔に戻ってゆく。
 決戦前夜。
 運命のベルまであと18時間。

ships#17 に続く