ships #20
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ざわめきを飲み込むラテンミュージック。フロアを舐めるように旋回する照明は極彩色に煽られて、不思議な浮遊感を漂わせていた。
サイケデリックな1Fの様子を見下ろしながら、蝋燭の明かりを頼りに向かい合う2Fは対照的に落ち着いた雰囲気。開放的な空気を纏ったままクローズドの空間に浸れるこの店の2F席は、昔からのコウのお気に入りだった。
話したいことを洗いざらい聞いてもらったこともあり、酔いが回った安里はすっきりとしてひどく心地よかった。恐らくは入念にボディチェックをしているであろうコウの帰りをのんびりと待ちながら、くるくる変わるイルミネーションを目で追い掛ける。眩い光の渦は心の緊張さえ解してゆくようだった。
何気なくロングショットを持ち上げた途端、汗を掻いたグラスから水滴が落ちる。足元の鞄が濡れたかと視線を落とした先、ごく近くに黒い革靴の先が見えた。
「あぁ、早かったね……」
おかえり、と続けようとした声は、けれど音になることはなかった。
「……橘、さん……」
「久しぶりだね、アサト」
見上げた視線の先に立っていた人物はコウではなく、かつて燃えるような恋に落ち、一方的な別れの末、精神が焼き切れるほどの苦しみをもたらした橘 涼その人だった。
あれから少しも変わっていない。
懐かしい表情、懐かしい声。噎せ返るようなカサブランカの香りもそのままに極上の笑みを浮かべ見せる。戸惑う安里に対し、まるで昔に戻ったように耳元に唇を寄せた橘は、甘く低く響く声でそっと囁いた。
「会いたかった……」
ゾクリ。鳥肌が立つ。
身に染み付いたその声が、忘れ掛けていた感覚を体中から呼び覚まそうとする。体の芯を溶かす媚薬のような優しい声音。繰り返し求めてしまう麻薬のように。
安里はもはや身動きも取れない。動悸と混乱で指先まで冷たくしながら、ただ橘の声を聞いていた。
「携帯は、番号は変わってないね?」
「……はい」
「そう。……いい子だ」
そうしてかつてのように大きな手で安里の髪を撫でると、掌の上からくちづけた。その重み、その仕草に泣きたくなる。封印していたはずなのに、身体がすべてを覚えていることが悔しかった。
相手が硬直していることすら楽しむように橘は胸ポケットから取り出した名刺を渡すと、じゃあ、と素早くその場を後にする。まるで闇に溶けるようにスルリと身を消す様すら昔のままで、掴めない後ろ姿に唇を噛んだ。
きっと自分は今、泣きそうな顔をしているだろう。なんてみっともない。
精一杯強がって、唇を引き結んで、己を奮い立たせていなければ本当に泣いてしまいそうだった。掌の中、橘の源氏名である "リョウ" の文字が並ぶ。安里と同じく本名から取った名なのだと聞いたのはいつだったか、もう自分は忘れてしまった。あんなに嬉しかったはずなのに──。
「たっだいまー」
唐突に、過去に溺れる安里を引き戻すように、入れ替わりでコウが戻った。
「あ、お、おかえり」
顔を上げ声を掛けながら、瞬間的に名刺を隠す。それが後ろめたさになることなど判断する間もない出来事だった。
「あれ、何かあった? 元気ないわね……。あ、アタシがいなくて寂しかったんでしょ?」
そんな風に冗談で笑わせてくれるコウの優しさが身に染みる。だからこそ、罪の意識は根を張り始めた。
「もー、コウちゃんてばトイレ長いよー」
「何言ってんの。どこにイイ男がいるか分かんないでしょ」
目が合って3秒が勝負なのと熱く語る友人についつい笑ってしまいながら、けれど意識下で、コウにも、そして水瀬に対しても後ろめたい気持ちが強くなる。
テーブルの下、紙片を持つ右手が温度を許さない。
ダンスフロアの音楽だけがふたりの間をゆらゆらと擦り抜けていった。
ships#21 に続く
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