ships #21
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あれ以来、マトモに水瀬の顔が見られなくなった。
咄嗟に隠した名刺は財布に押し込んだまま取り出すこともないのに、忘れたはずの過去と再び接点を持ったことで、自分の醜い部分までも白日に晒された気がして落ち着かなかった。何より、身も心もボロボロになるほどのひどい別れ方をした相手とのたった数分の再会で、捨てたはずの感覚を身体が鮮明に思い出してしまった──そのことが、安里のプライドを深く傷付けていた。
まるで見えない鎖のように、ここにいない存在に束縛されそうになっている。二度と心を許すことがないと分かっていても、それはトラウマを逆撫でする行為でしかなかった。
嫌で嫌で堪らなくて、恐いとさえ思うのに、振り解くための術を知らない。けれど一方で、安里は表層的な問題に囚われて、もっと根底にある本質を置き去りにしていた。
水瀬と顔を合わせることが気まずいと思う理由、それがどこから来るのかを自覚さえすれば解決の糸口はすぐ傍にあるのだけれど、目まぐるしく変化する日常の中、気持ちが状況に追い付かないまま現実だけが容赦ないスピードで流れて行く。
「……はぁ」
混乱を極めた脳はこれ以上の処理を放棄した。疲労だけが澱のように積み重なってゆくのを感じ、長い溜息を吐いた時、そっと肩に触れる者。振り返ると同僚の小沢が立っていた。
「お疲れ。根詰めるとしんどいぞ」
そろそろ帰ろうぜ、との誘いをいつもはありがたいながら断るのだけれど、困憊した今日は素直に首を縦に振る。
「……うん。そうしようか」
手早く周囲を片付けると、残りの書類は見なかったことにしてふたりは並んで歩き出した。
「プロジェクトも一段落したんだし、あんま仕事入れんなよ? 今日顔色もよくないし」
「あ、うん。……サンキュ」
安里を気遣ってそう言ってくれるから無理矢理笑顔を作ってみるのだけれど、その原因が仕事のし過ぎなどではなく、かつての恋人との再会だと言ったら彼は何と言うだろうか。……曖昧に笑うしかなかった。
既に人気の少なくなった社内、エレベータすらさほど待たずに到着する。1Fのエントランスに足を踏み入れると人工石の床に反響して靴音が鳴った。
と、前方に見慣れた背中。
気付いたのは同時か、もしかしたら安里の方が早かったかも知れない。それがプロジェクトマネージャーであることなど見た瞬間に分かった。
「水瀬さん」
未だ気まずい思いを抱える安里を余所に、プレゼン前日の奮闘以来見方を変えた小沢は臆することなく声を掛ける。
「お疲れさまッス。今帰りですか」
「……あぁ。君達も、随分忙しそうだな」
振り返った彼は一瞬反応を遅らせ、相手が不自然と取らぬギリギリのラインでポーカーフェイスの仮面を付ける。それが違和感として残ることに安里は気を削がれつつも、後ろめたさに支配され追い掛けることが出来ないでいた。
「それが今ちょっとやっかいな契約が立て込んでるんスよ。こいつなんて係り切りで」
唐突に水を向けられ、曖昧に笑うしかない安里に水瀬は目を細めて見せた。
「君はいつでも引っ張りだこだな」
「いえ、そんな……」
そんな風に見つめられると困る。水瀬の辞職を力尽くで止めた時のように、君でよかったと笑った時のような目で───。
声を詰まらせていると、唐突に携帯電話が着信を告げた。報告した契約書に問題でもあったのかと慌てて鞄から引っ張り出し、サブディスプレイを確認すると、そこに表示されていたのは部署の課長の名前ではなく、あろうことか橘だった。
「……あ、」
サッと顔色が変わったのを業務トラブルと取ったか、動揺を隠せないまま留守電にしようとするのを気遣って、水瀬は電話に出るように勧める。相手がかつての恋人とも知らず心配してくれるのが心苦しく、それ以上に声を聞くことが、それも水瀬の前でというこの状況に躊躇いを禁じ得ない。繰り返し鳴り続けるトロイメライ。二の足を踏む安里を小沢がつついた。
「あ、分かった。おまえそれ彼女だろ?」
明らかに面白がっている、こんな時の顔は単なる冗談。
「な…、そんな、彼女とかいないよ」
「じゃあ元カノとか。安里も隅に置けないよなー」
「違うって」
付き合いの長い安里には小沢の癖ぐらいよく分かっている。けれど。今この状況ではジョークで片付けられる範疇になく、かつ笑い飛ばすほどの勇気も、誤魔化す知恵も持ち合わせてなどいない。よりにもよって水瀬の前で、それも恋愛対象外の彼女の話など、もうどこをどう否定していったらいいのか分からない。半ば振り切るようにふたりに背を向けた安里は、離れたところまで歩いて通話ボタンを押した。
遠離る背中を見つめつつ、だが息を詰めたのは安里だけではなかった。
司令塔代理が頬を染めるのを見、水瀬は自分の中で何かが弾ける音を聞く。形容し難いこの感情を整理する余裕もないまま、成り行きに身を任せるばかりで。呑気に世間話を続ける小沢に相槌を返しながらも、溜飲の下がらない思いを噛み締めていた。
遠く盗み見る安里は見たことのない表情をしている。仕事ではない、プライベートの顔を目の当たりにし、電話の相手がそうさせていることを思い、司令塔はそっと唇を噛んだ。
胸の奥がチリチリと痛む、この感じを知っている。
これは、嫉妬と言うんだ───。
「───!」
唐突に自覚した安里への想い。
気付いた瞬間、胸の奥に燻っていた爆発的なエネルギーがすべてここに帰依するのだと思い至った。けれど恋人と揶揄われた相手との電話を前に、既に為す術がないまま水瀬はひとり途方に暮れる。現状を打破したくとも手の伸ばし方さえ分からなかった。
苦しさの中だからこそ思い知る、この想いの強さ。
同じ熱がすぐ傍にあることなど知ることもなく。
ゆっくりと、糸は引き寄せられてゆく。
ships#22 に続く
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