Monthly archives

 2007年08月 

ships #22 

←前話へ

 それはいつもの残業時間。
 既に習慣となりつつあった長時間勤務に集中力も切れ始めていた時、唐突に携帯画面が着信を告げた。机上の携帯のサブディスプレイが忙しなく光る。確かめなくても分かる、それはコウからの電話だった。
 通話は一旦保留にし、何気なさを装って席を立つ。居室を出、人気のない応接室付近まで移動する間胸騒ぎは大きくなるばかりだった。
 勘のいい彼のことだから何か気を回しているのかも知れない。なるべく心配させないように応えようと一つ頷いてから通話ボタンを押下する。だが、安里の覚悟など木っ端微塵に打ち砕かれた。橘が ships に現れたという。
「……それ、本当……?」
「うん、昨日。……全然変わってなかった」
 コウとて橘にいい感情は抱いていない。むしろ安里を苦しめた相手として恨んでさえいるだろうけれど、人を憎み切れない優しい彼はすべてを切り捨てることが出来ずに歯痒い思いをしたのだろう。声が少し震えていた。
「それにね……アサトに会ったって」
「……っ」
 彼はそんなことも話したのか───。
 否、あの場に行ったということは、即ち安里の周囲を固めることを意味している。どんな過去さえお構いなしに再びテリトリーに侵入しようとしているのだ。それは自分だけでなく、コウや梶原も巻き込んで。考えただけで鳥肌が立った。
「……コウちゃん、俺、今すぐ行く」
 居ても立ってもいられず、ギュッと携帯を握り締める。
「仕事大丈夫? 終わってからでもいいのよ?」
「うん、でも話したいことあるから」
 強く言うとコウはそれ以上は止めず、ただ気を付けてね、と付け加えて電話を切った。
 壁に持たれ、思わず片手で顔を覆う。長い長い溜息が指の間から零れていった。
 事態は想像以上のスピードで進んでいる。あっと言う間に間合いを詰められ行き場を失う恐怖に晒されている。唇を噛み締め、拳を握り締め、前を向いた。己を奮い立たせていないと逃げ出してしまいそうだった。
 デスクに戻ると手持ちの案件を急いで片付け、残りはすべて明日に回して店に向かう。いつもどおり迎えてくれたコウの優しさに感謝しながら、まずは再会を隠していたことを告げ、謝った。
「……黙っててごめん。隠してるつもりはなかったんだけど、言い辛くて……」
 上手く説明出来ずに言い淀む。俯く安里の頭をポンポンと撫で上向かせたコウは、目を細めて見せた。
「うん。何となくね、そうなんじゃないかなーとは思ったんだ」
「……え?」
 思い掛けない言葉に顔を上げれば、まるで魔法遣いのように何でもお見通しの彼は、仕方がないといった風に眉を下げ苦笑する。
「あの人に会ったとか、そこまでは分かんなかったけど……。でもアサト、心ここに在らずって感じで放心してたもの」
 くるりと閃く薄茶の瞳。ジンソーダを一口含み息を吐くと、コウは静かにグラスを置いて向き直った。
「でも今は、心の中にダーリンがいるもんね」
「そ、そんなこと……」
「ないって言える? 本当に言える?」
 目を逸らそうとする安里に対し、コウは真正面から向かい合う。退路を塞ぎ、首元まで躙り寄り、そうして大切な仲間が感じているであろう後ろめたさにライトを当てた。
「逃げちゃダメよ、アサト」
 そうしてギリギリのところで対峙することで、自己の内面を覗く恐ささえ分けて寄越せと言外に伝える。優しさゆえの有無を言わさぬ力尽くのやり方が今はとてもありがたかった。
「……実はこの前、水瀬さんといる時に電話が掛かって来て……。凄い、苦しかった」
 電話の相手が女性で、しかも恋人と誤解されたこと。そして誤解されたまま話したこと。声高に事実無根を叫んだところで照れ隠しとしか取られない現実に、ただ焦燥感だけが募っていった。
「いっそ打ち明けたらよかったのに。相手は昔の男だって」
「そんなこと……」
 安里は思わず言い淀む。怯んだ隙をコウは見逃さなかった。
「水瀬さんに知られたくないのは、アサトがゲイだから? それだけじゃないよね。───好きなんでしょう、水瀬さんのこと」
 核心を突く言葉を安里はむしろ他人事のように呆然と聞く。そうなのだろうか。本当に、そうなのだろうか。胸に手を当て、一点を見つめたまま浅い呼吸を繰り返した。
 確かにゲイであることをカミングアウトするのは恐い。それは相手に受け入れられないどころか、これまでの関係すら壊してしまうかも知れないから。けれど……コウの言うようにそれだけではないこともぼんやりと気付いていた。
 たとえば、水瀬は安里がゲイであろうとなかろうと構わないと言い切ったとしたら、胸に蟠る思いはすべて消えるはずなのに、そこまで考えてもなお残るモヤモヤとした不安。それが、彼の視線を自分に向けたい一方、後ろ暗い過去をひた隠しにしたいという相反した切望なのだとすれば、辿り着く先はひとつしかない。
 好きだから、知られたくない。
 ふたりの間に割り込まれたくない。
「……っ」
 あぁ、恋の自覚は死の宣告に等しかった。
 ようやく普通の生活を送れていたのに、ようやく傷が癒え始めていたのに、思い掛けない再会によって剥がされた瘡蓋の下、過去受けた様々な痛みがトラウマとなって安里を襲う。求めることに怯え、与えることを恐れ、悲しみで塗り固めてきた恋愛達。また誰かに恋をしてしまうことが恐くて恐くて堪らなかった。
「……もう辛い思いなんてしたくないのに……」
 キュッと唇を噛む。指先の温度がなくなるほどの極度の緊張に耐えながら、安里は必死に考え続けた。
「それでも、諦めるなんて出来ない」
 だってこの胸を叩く痛みさえ愛しい。あの人を想うほど焦がれるように強く。
「アサト、心に嘘は付けないよ。もう解放してあげなくちゃ」
 カウンターの向こうから優しい手が延びる。何度も髪を撫でてくれるのを感じながら、安里は己を見つめ続けた。
 逃げるだけじゃ守れないものがある。意地でも譲れないものがここにある。
 覚悟を決め顔を上げると、コウに向かって真直ぐ笑った。

 強さを内に秘めた顔だった。

ships#23 に続く