ships #31
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お決まりの残業時間、先に上がる仲間を見送ることにももう慣れて久しい。
プロジェクトはとっくに終ったというのに仕事は増える一方で、こんなに働いても減らないのならいっそ捨ててしまおうかなんて、傍らに山を成した書類を見てひとつ溜息。今日はもう帰ろうと顔を上げたその時、狙ったように目の前の電話が社内着信を告げた。
「はい、法務の安里です」
声が間延びするのは疲れのせいと言い訳したのを見透かすように、くすりと笑う声。名乗らずとも分かった。
「……やっぱりまだいたな」
「いたなとはご挨拶ですね、水瀬さん」
「ハハ、すまない。相変わらず君の仕事は減らないのかと思ってな」
苦笑する姿が目に浮かぶ。そういう自分だってこんな時間まで残っていることは棚に上げ、穏やかに話す声に耳を傾けながらも、プロジェクトが終了したこの時期の電話に正直驚きを隠せないでいた。恐らく半分私用だろうとアタリを付けた安里は、子機を肩に挟んで通話を続けながら手早く身支度を整える。 斜向かいの課長が液晶画面に釘付けなのを確認し、こっそり退勤処理をして。 電話を自分の携帯電話に転送すると、壁伝いに出口を目指した。
「……水瀬さん、これから時間あります?」
「あぁ。よかった。君に話があるんだ」
「呼び出しなんて久しぶりですね。戦略室ですか? それとも休憩コーナーかどこかで?」
けれど居室のドアを開けた、正面。
「水瀬さん…!?」
携帯電話片手に壁に凭れる司令塔と目が合った。矢継ぎ早な展開に乗り遅れる安里を促し先に立って歩き出した水瀬は、どこへ、という無言の問いに対して肩越しに笑った。
「……資料室に行こうか」
キィ、とドアの軋む音がやけに響く。
天井高くまで設置された書棚を埋め尽くすキングファイル。重要書類の宝庫とはいえIT化の進んだ昨今、滅多に訪れる人もなく常に静寂を保っている。今日も、そしてふたりが偶然出会ったあの夜も、こんな風に静かに訪問者を迎え入れていた。
無言のまま閉めた扉。
理由も分からず立ち尽くす安里を余所に、指先でファイルの背をなぞる水瀬は考え事をするように遠い目をする。その視線の先はどこか違う世界を見ているようで、瞬きをする間に消えてしまいそうで、銀色の枠、アルミのフレームに切り取られた月光を浴びる彼の腕を夢中で掴んだ。
「……安里?」
きっと今、自分は心細い顔をしているのだろう。労るように焦げ茶の目が、すい、と引かれた。
「急に呼び出してすまない。君に言っておきたいことがあるんだ」
黒い瞳から目を逸らすことなく、水瀬は自身の転勤を告げた。
異動先の部署、仕事の内容、異動後の待遇。給料や格付けが上がることと引き替えに、有無を言わせぬ強引な引き抜きは僅か一週間しか猶予を与えてくれなかった。本人にですら決定事項として通知された辞令の内容を一気に語ると、水瀬は大きく一息吐く。相手の反応を見る余裕はなかった。
僅かな躊躇いを経てそっと瞼を持ち上げる。だが見返した先、安里は動揺に揺さ振られることなくただ真直ぐ彼を見ていた。
「……栄転、おめでとうございます」
そして揺るぎのない声で。
「水瀬さんの仕事が認められたってことですもんね。やっぱり、凄い人です」
そして曇りのない笑みで。
「一緒に夢が見られてよかったです」
「安里…」
まるで自分のことのように喜んでみせる一方、高ぶった気持ちを落ち着けるために何度も深呼吸を繰り返しているのに気付かぬほど鈍感ではない。握り締めた拳になお力を込め、懸命に何かを堪えるのを見、水瀬はそっとその髪に触れた。
「……ありがとう」
途端、形容し難い感覚に襲われた安里の身体に熱が篭る。緊張に肩を強ばらせ、一心に手の動きを追っていた司令塔代理は、何度も繰り返される穏やかな動きにやがてゆっくりと息を吐いた。
「最初に君に伝えたかった。俺の方こそありがとう」
静かな礼に安里は俯きを深くする。殆どを床で埋める視界では、眉を寄せる水瀬の表情を捉えることは出来なかった。強過ぎる衝撃に寂しいという感情が心から剥離する。だからこそ、ポツリと呟いた言葉に、それまでギリギリのところで保っていた理性が音を立てて崩壊した。
「もう、こんな風に会えなくなるな……」
「そんなことないです!」
咄嗟の声が狭い資料室に反響する。けれど形振りなど構っていられなかった。
「距離があるのなら、電車に乗って行ったらいいんです」
「片道3時間だぞ。遠過ぎる」
「行こうと思えばどこだって行けます」
髪を梳いていた手を取り握り締める。まるで子供が駄々を捏ねるような仕草は、けれど言葉を持たぬ彼の想いを語るようで水瀬は身動ぐことが出来なかった。すべてが静かで、息が詰まるような緊張感の中、凛とした声だけがふたりの間を泳いでゆく。
「世界中のどこにいたって、俺は水瀬さんに会いに行きます」
たとえどれだけ離れていても。
「会いたいから、会いに行きます。それだけじゃダメですか」
あなたが生きていることに意味があるのだから。
「……君には負けた………」
飾らない真直ぐな言葉に水瀬がとうとう白旗を振る。自分のためにここまで覚悟を決めた相手をどうして無下になど出来るだろう。彼に対するこの想いをどうして隠してなどおれるだろう。静かに呼吸を整えると、司令塔は自嘲するように緩く笑った。
「遠く離れてしまうなら、いっそ黙っていようと思った」
苦しめると分かっていたから。
「だが……そんな顔を見たら駄目だな。言わせて欲しい」
辛い思いを強いてもなお、この想いを許して欲しい。
「君が好きだ───」
この願いも全部全部全部、君に届きますようにと祈る。
自分でも困惑するぐらい好きだと告げる言葉に、ひどい告白じゃないですかと頬を染めた安里が強がって苦笑する。繋いだ手を引くと、思い掛けない動きに僅かに蹌踉めいた身体は、綺麗な放物線を描いてすっぽりと腕に収まった。柔らかな匂い。愛しさで喉を詰まらせながら、水瀬はその柔らかな黒髪に唇を落とした。
「君でなければダメなんだ。君以外では代わりにもならない」
「水瀬さん…」
閃く双眸に射竦められ、もはや涙を堪えることが出来ない。
跳ね上がった心臓が切なさに壊れてしまうかと思った。
熱く脈打つこの血が嬉しさで溢れてしまうかと思った。
誰かを想い、想われるのがこんなにも嬉しいことだなんて、もう長いこと忘れていた気がする。見返した瞳がゆっくりと閉じられてゆく中、安里もまた胸を焦がす衝動に従い、瞼を下ろした。
滲んだ輪郭がゆっくりとひとつに重なり合う。
三日月がふたりを見守っていた。
どんなに遠く離れても、今日のことを忘れないでいよう。
長い長い道のりの果て、手にしたかけがえのない奇跡を。
ships#32 に続く
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