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 2008年03月 

noir #21 

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 千の願いを。万の祈りを。たったひとつの我が儘を───。

 絶望だけが横たわる夜。
 闇に広がる閃光にありったけの声を上げ、けれど歯車を止めることが出来ないまま氷室は床に崩れ落ちた。すべての元凶はこの手が造り出したもの。罪の意識に気が狂ってしまいそうだった。
「りつか……」
 もういっそ消えてしまいたい。あなたの思い出ごと、すべてを抱いて。
「……りつ、か……」
 頬を伝う涙を拭うこともせず、氷室は譫言のように愛しい人の名を呼び続けた。
 ───その時。
 ガタン、と大きく留め金の外れる音がすると、聞き慣れた軋みと共にハッチが開いた。一通りのプログラムが終了したのだ。今やもう過去の記憶はなく、ましてや男性でもない、見慣れた面立ちの見知らぬ人間が姿を現す。そう思うだけで、憔悴し切った心が今にも木っ端微塵に砕けそうだった。
 俯いたままの氷室の元に歩み寄ると、その人は促すように肩に手を置く。だが、意を決して目を上げた先───視界に映ったのは元の姿の立夏だった。
「え…?」
 身体的な変化が一切見られない。もっと言うならその表情も、仕草も、元の通りの彼のまま。
 動揺を隠さない相手に苦笑すると、立夏はそっと指先を伸ばし、頬をなぞった。
「ごめんな、泣かせて……」
 そう言って涙を拭う。
「機械さ、壊れてたよ」
 原因不明の誤作動か、或いは老朽化によるエンストか。
「だから記憶も全部無事。残念ながら男のままだけどな」
「立夏───!」
 照れ隠しをするように眉を寄せる彼の、悪戯が成功した時のようにニヤリと笑う彼の、そのすべてが愛しかった。愛しくて愛しくて堪らなくて、どうしようもなく嬉しくて、だから思い切り抱き締める。壊れそうなほど強い力で。ふたりがもう二度と離れないように。
「よかった、本当に……よかった……。私が分かりますよね。全部覚えてますよね」
「あぁ、覚えてる」
「あなたがいい。このままのあなたがいいんです。あなたでなければ、ねぇ、立夏」
「うん、うん」
 何度も頷いてくれる愛しい人の髪にキスを贈り、改めて向き直る。
「愛しています、立夏……。あなたがいなくなってしまったら、私が存在する意味なんてない」
「氷室……」
「あなた以外では代わりにもならない。共に過ごした時間は掛け替えのないものなんです。……だから立夏、お願いです。もう二度と記憶を消そうとししたりしないで……」
 それがどれだけ我が儘かも知っている。けれどこれだけは何があっても守らなければならないのだ、他の何を犠牲にしてでも。
 氷室の目を見つめ、立夏はひとつ頷いた。
「……うん、ごめん」
 そうしてそっと目を閉じて。滑らせた腕で引き寄せて。
「私が……好きですか」
「……んなの……聞くなよ」
 柔らかに重なる唇。いつかよりも何倍も切なく、何倍も甘いキス。
「いいえ、聞きたい。私があなたを求めるように、あなたにも私を求めて欲しい」
「強欲なヤツ」
「お嫌いですか」
 試すような含み笑いに、挑発に乗った主が口端を持ち上げた。
「悪かねぇな。………あぁ、好きだぜ」
 再びゆっくり目を閉じて。
 これまでの隙間を埋めるように熱いくちづけが夜を溶かした。

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一時はどうなることかと思いましたが、こんなオチ。えぇ、ここがオチ。
明日はいわゆるサービスシーンですので、どうぞお楽しみに(笑)

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noir #22 に続く

noir #20 

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 パンドラを開けて。その悲しみは俺が引き受けるから。

 抱き込まれた腕の中、嬉しさで胸が一杯になった。
「ひ、むろ……」
 今更のように鳴る心臓。羞恥と歓喜でコントロールを失った感情が己の内で湧き上がる。行き場を求めてうねる熱が燻っていた火種を煽った。

 チクショウ。なんで今更───。

 気付いた時にはもう遅い。そして一度自覚してしまえば後戻りは出来なかった。だから腹を括るしかない。ここにすべてを置いていくことを。彼にすべてを預けることを。現実とは不釣り合いなほど冷静な自分がおかしかった。
「俺が女になったらさ、ちゃんと嫁にするんだぞ」
 だから、こんなことがサラリと言える。
「今この決断も俺は覚えてないわけだし、おまえが上手く立ち回れよ」
「どうして……」
「それと、オヤジには適当に言って。俺が機械弄ってたら動いちまったって。だからおまえは関係ないって」
「どうして、あなたは……っ」
 ひとり話を進める立夏に耐えられなくなった氷室は、その唇を重ねることで強引に続く言葉を奪った。怒りと、そして苦しいぐらいの喜びに胸が張り裂けそうだった。
「何故自分ひとりで背負おうとするんです。何故先にいってしまうんです」
 責めるはずの言葉は、けれど相手の表情に飲み込まれる。
「……おまえがね、」
 苦しそうに笑うから、と。
 すっと目を細め、優しい優しい顔をして。
「俺だって伊達に長いこと一緒にいたわけじゃねぇよ。おまえが自分の気持ちに嘘吐いて、無理してんのなんてお見通しだ」
「立夏様……」
「苦しんでるのを見るのは嫌だ。でも、おまえを失うのはもっと嫌だ」
 俺は我が儘なんだ、そう続ける相手に言葉もない。
「だってさ……おまえから言い出すわけにはいかないだろ、こんなシナリオ。だから最悪な結末になる前に、俺が動くしかないと思った」
「……立夏様……」
 すべてを見透かしたように主が笑った。
「りつか、って呼んでみて。この前みたいに」
 追い詰められた状況におよそ似つかわしくないリクエスト。焦燥感に煽られた氷室には理解が追い付かない。どうして。どうしてそんな風に笑うのか、そんな穏やかな表情で。
「なぁ氷室。呼んで、俺の名前」
「……りつか……」
「うん。ありがと」
 不意に、トン、と突き放される。
「氷室、……大好き」
 声を最後にハッチが閉められ、内側から鍵が掛けられる。その瞬間何が起きたのか分からなかった。
「立夏!?」
 オートロック音に続き光が零れる。最悪の現実が目の前で進む。
「立夏!」
 ドンドンと拳で叩き続けても、強固な壁は破られない。気持ちも温度も声さえも、もう "彼" には何ひとつ届けられない。
「待って、立夏! 行かないで!」
 その右手がレバーを引いた瞬間。
「立夏───!!!」

 最後に見たのは、笑顔だった。

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あわわわ(@_@) 自覚と同時にサヨナラです。
お付き合いいただいている方の胃を痛めるお話ですみません……。

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noir #21 に続く

noir #19 

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 罪を抱いて堕ちるなら、一度だけその腕で抱いて───。

 辿り着いた部屋。
 いつか見た時のように圧倒的な存在感を放つ機械の前に立ち、改めてそれを見上げた。
 仰々しさの割に操作はシンプルなようで、初期化後に新たなデータを書き込むなどの複雑なリライト処理をしなければ、恐らくは自分でも動かすことが出来るだろう。少なくとも性別を変える程度であれば難しくない。ギリギリの崖っぷちまで全速力で走って来た立夏は、ようやく立ち止まり、改めて自分の胸に問い掛けた。
 機械に入るということは、記憶をオールクリアするということ。
 これまでの人生も、アイデンティティも、彼と過ごした時間も、何もかも。その声、そのぬくもりさえも。
「……っ」
 黒曜の瞳を思い出し、鼻の奥がツンと痛んだ。自分には捨てる物など何もないと思っていたのに、そして望むものもありはしないと決め付けていたのに、こんな時になってようやく分かる───等価交換の法則。未来のために過去を差し出すのだと。
「氷室……ごめん……」
 これが正解かは分からない。これがおまえのためかも分からない。
「ごめんな……」
 それでも今思い付くたったひとつの方法だから。どうか許して。そして笑って。
「……俺に、笑ってみせて………」
 懐かしい笑顔を思い浮かべながら、立夏は手近な紙片にメッセージを残した。
 最初で最後のラブレター。彼のすべてを失いたくなかった。だからこそ、その代価で在れるのなら、この記憶さえも惜しくはないのだと。
 ごくり、喉が鳴る音だけが響く。
 短い手紙を傍らのテーブルに置くと、少年はレバーを回しハッチを開けた。キィという小さな軋みに続いて内部の空気が外気に混ざる。だが意を決して中へと足を踏み入れた瞬間───背後で物がぶつかる音が響いた。鍵の掛かったドアを力尽くで開ける氷室だった。
「何をしているんですか!」
 開口一番、鋭い叫びが突き刺さる。来た時の勢いのまま一直線に駆け寄った執事は、身構える立夏を羽交い締めにした。
「止めんな、氷室」
「分かってるんですか、記憶が消されるのがどんなことか!」
「分かってるよ」
「分かっていない。あなたは何も分かっていない!」
「分かってる! 仕方ないんだ。これしかないんだ」
「どうしてそんな風に決めつけるんです」
 両手首を掴んだまま言い争った弾みで、氷室は肩を壁に強打する。
「……ッツ、」
 背筋を伝う痛みに顔を顰め、思わず睫を伏せた際、そこに置かれたメモが目に入った。
「これは……」
 ほんの数行だけのラブレター。どんな言葉より真直ぐな想い。
 見下ろした先、立夏は俯いていた。
「………俺が変われば、おまえと一緒にいられる。誰も傷付かずに済む」
「私と、一緒にいるために?」
「何度も言わすな」
「……立夏、様……」
 苦しめてすみません、そう耳元で告げる声。
 気が付いた時には息も出来ぬ程の力で逞しい腕に包まれていた。

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唯一大事なものを守るために、一番大切なものを差し出す矛盾。
いよいよ運命のカウントダウンです。

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noir #20 に続く