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 2008年03月 

noir #10 

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 力なき者は運命に抗う術を持たない。

 夜風が胸の奥を浚ってゆく。
 久しぶりに顔を合わせた師の後ろ姿を見送って、氷室はひとり庭の隅に立ち尽くしていた。
 どんなに考えたところで何ひとつ思い通りにならぬことなど百も承知で、それでもメビウスの輪を断ち切る方法はないかとただそればかりを逡巡するには訳がある。

 立夏の未来が再び歪められる。

 彼と、彼の父親───即ち御園グループの中核の極傍に身を置き、終始目を配っていたからこそ、この先どうなるかおおよその予測はついていた。
 立夏は、経営者に向いていない。
 彼の純粋に人を信じてしまう優しさは独裁者には致命的。氷室が確信していたように、現社長である御園もまたグループの豪腕経営をハンドルし切れないことに薄々気付き始めていた。それは、決断が下されさえすれば、再びあの機械によって都合のいい結末へと導かれるということを意味している。
「……っ」
 改めて胸の奥の蟠りを直視し、唇を噛む。言葉にした途端現実味を帯びてしまいそうで、時丘にすらここまで話すことが出来なかった。どんなに強がってみせたところで彼には分かってしまうだろう、自分がどんなにそれを恐れているか。
 氷室にとって、立夏はまさに自分の一部だった。
 開発したばかりのGSM初実験の被験者としての彼は本当に生まれたばかりで、ようやく表情が出始めたほどの赤ん坊だった。その頃から、あの頃の自分と同じ年まで育った彼まで、そのすべてを知っている。毎日毎日すぐ傍にいて、経過を見るという名目で彼の成長を見守ってきた。不意に現れる男性の仕草を目にするたび転換の成果を記録し、フィードバックするためのヒントを探った。
 だが、それはほんの表向きのこと。
 母親のいない家庭環境の中で四六時中彼に向き合い、あらゆる記憶を共有することで、自分にとって立夏は掛け替えのない存在にまで高められていた。彼のいない生活など考えられるわけもなく、彼のいない世界に生きる望みは何もなかった。

 だが、待っているのは残酷な未来。

 再びGSMに入るということは即ち、記憶を消すということ。自分達が積み上げてきた時間も思い出も何もかもすべて捨て去ってしまうということ。
「そんなこと……」
 許せない、そう続けるはずの声はあまりに惨い現実に音を失った。
 何度も何度も首を振る。強く噛んだ拍子に唇が裂け、軋んだ痛みと共に血が滴り落ちた。
「立夏……」
 譫言のように呟いた名は、風に乗って暗闇へと消える。
 月のない夜、これからの行方さえも見えず。

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初めての氷室さん一人称、存分に胸懐を語っていただきました。
自分との思い出をすべて捨てるために自分が造ったものが使われる苦悩。
ようやく「苦みばしった」感を出し始めましたよ。……た、楽しい……。

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noir #11 に続く