sign #17
←前話へ
泳ぎ疲れた魚は遙か遠くの沖を振り返る。
そこには自らの身体から削げ落ちた鱗という名の痛みが波間に光るばかりで、こうなって初めて、苦しかったことを知った。
もっと息を吐きなさい。もっと楽になりなさい。
そう言ってくれた人。自分を心から心配し、抱き締めてくれた人。
「渉…」
思い出すたびに胸が熱くなる。自分はどんなに情けない顔をしていただろうか、そう思い返すほど、彼の前で素顔を晒せた嬉しさに自然頬は緩んだ。これまで多かれ少なかれ、誰に対しても心の闇を隠すための城壁を作ってきた自分なのに、彼だけは───渉の前でだけはそれが必要ないのだと分かった。痛感した。
だからこそ、感謝している。
自分の中で日々大きくなる彼の存在。こんなに素晴らしい人と出会え、ほんの一時だったとしても交わることが出来たのは、人生の中で本当に大きな意味があったことだと思うから……。
口端に穏やかな笑みを浮かべながら開店準備に勤しむコウは、だが己の中に生まれつつある想いが双方向だと気付いていない。渉にとって自分の存在とはどれほどの大きさであるのか、その着眼点に思い至ることさえなかった。他人のことには人一倍敏感で、その実自分のことには無頓着。渉に言わせればこれ以上のない不器用さは、だからこそ彼をより魅力的にしていた。
「……百合はお気に召さないか?」
ふと目を上げれば大輪の花。
「わっ カジー、どうしたのソレ!」
いい匂いね、と笑うとオーナーもつられて口端を上げる。
「わざわざ調達してやったんだ、誰かさんが誕生日だからな」
「うそっ 今日だっけ? やーん。嬉しい〜〜〜」
ありがとね、と投げたキスを小狡く避けつつ、梶原は純白のカサブランカをカウンターに飾った。そう、今夜はコウの誕生日であり、彼のお祝いにと多くのゲストが入れ替わり立ち替わり訪れることは予測範囲。昨年など入れ替え制にさえなったのだ。あの時は大変だったよなぁと未だに愚痴を忘れないオーナーに苦笑しつつ、「アタシの人徳ってヤツ?」と返すことも忘れない。
「ホラ、準備いいか。開けるぞ?」
「ハーイ」
ドアを開ければ軽やかなベルの音と共に夜の空気が流れ込む。
「いらっしゃいませ」
「ハッピーバースデー!」
まるでハロウィンのように。
開店と同時に鳴り響くクラッカー。耳元の轟音に目を白黒させる梶原を指差して笑いつつ、コウは満面の笑みで客達を迎え入れた。
「コウちゃん、おめでとー!」
「やーん、ありがとーvvv」
次々に差し出される花束やボトルを受け取りながら、バーテンダーは張り切って袖を捲る。
「さ、なんでもゆったげて! 超美味しいの作るから!」
「じゃあ俺、コスモポリタン」
「久しぶりにアレキサンダーにしようかな」
「トム・コリンズが飲みたい」
「俺エル・ドラードで」
「ちょぉぉっと! なんでいっぺんに言うの、しかもシェークばっかりっ」
「ハハ、頑張れ」
「カジーも笑ってないで手伝ってよっ」
「いやぁ、俺は他人の晴れ舞台には上がらない主義なんだ」
ニヤリと口端を持ち上げ厨房に消える相方を見送りつつ、コウはキーッとハンカチを噛む。とはいえ、目の前の常連にリクエストされて嬉しくないはずなどなく。
「よっしゃ。そんじゃ一丁、頑張りますか!」
拍手喝采に迎えられ、忽ちのうちにテンションも鰻登り。
笑い、喋り、美酒に酔う。
記念日まだ、始まったばかり。
----------
昨日はたくさんのバナークリック&web拍手ありがとうございました!(^-^)v
割とローテンポのお話なのでちょっと心配してましたが、
少しでもお楽しみいただけてたら嬉しいです。これからもよしなに〜<(_ _)>
<カクテルメモ>
・コスモポリタン
「全世界共通」や「国際人」という意味を持つマティーニの1種。
レシピはウオッカ、コアントロー、クランベリージュース、
フレッシュライムジュースのシェーク。
・アレキサンダー
イギリスの皇太子妃アレキサンドラの名を持つ。
レシピはブランデー、クレーム・ド・カカオ・ブラウン、
生クリームのシェーク。
・トム・コリンズ
ジン・トニックに似た味わいだがややこちらの方が酸味が強い。
レシピはドライジン、レモンジュース、シュガーシロップ、
ソーダのシェーク。
・エル・ドラード
かつての探検家たちが南米北部にあると信じていた理想郷の名を持つ。
レシピはテキーラ、レモンジュース、はちみつのシェーク。
お気に召しましたら「BL小説」バナーをクリックしていただけると嬉しいです♪↓
sign #18 に続く
- | HOME |