ships #30 

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 プロジェクトの成功が不運をもたらすとは誰が想像しただろう。まさに青天の霹靂のように、水瀬に転勤が言い渡された。
 昇進待遇扱いのいわゆる栄転ではあるが、本社からは電車で片道3時間。会議をするとなれば直行直帰となるそこに現在の住まいから通えるわけもなく、引越を余儀なくされる。
 いくらプロジェクトが終了し、通常業務に戻っていたとはいえ、入社以来何年も過ごしてきた本社ビル。今年度から与えられた課長補佐という肩書きも相応の仕事を要求していたし、次期プロジェクトの暫定的なスケジュールも引いていた矢先なのだ。引き継ぎやら異動先との調整やらで昼食を摂る間もなく慌ただしい一日が終わろうとする頃、ハタと気が付いた。

 もう、簡単には会えなくなる。

 夕陽を拝むには遅い時間。
 休憩コーナーの自動販売機から滑り落ちてきたコーヒーを一口飲んでふと、見慣れた笑顔が甦った。
 出会ってからまだ数ヶ月。いや、もう数ヶ月、なのかも知れない。挑むような目をしていた彼はいつの間にかこの心に宿り、泣き顔を、笑い顔を、怒った顔さえ見せてくれた。そしてそのたびに自分を動揺させ、翻弄し、安心させ、喜ばせてきた。
 かけがえのないもの、と彼に言った。
 この想いに気付いただろうか……正直なところそれはよく分からない。どちらでもいいと思っていた。少なくとも、自分にとって大きな存在であることは伝わったと、あの時見返した目に断言出来る。そして今はそれだけでよかった。
「安里…」
 名を呼び、途端襲う胸の痛みにギュッと唇を引き結ぶ。固く食いしばった奥歯がくぐもった音を立ててもなお、力を緩めることは出来なかった。
 もう、簡単には会えなくなる。会社どころか、休日でさえ。
 ふたりを取り巻く環境が変わる。自分の仕事も大きく変わる。新しい任務はまた思い掛けない問題と期待を投げ掛けるのだろう。それに立ち向かうだけで精一杯で、きっと彼との何気ない時間は削られてゆく。
「……第一、それを喜ぶ男じゃない」
 短い付き合いだが知っている。相手を思うほど自分を後回しにしてしまう不器用な優しさ。だからこそ、彼に判断させてはいけない。彼に辛い決断を迫ってはいけない。自分のためにわざと選択肢を間違える男だからこそ、この重荷を背負わせてはならない。

 この想いは、告げてはならない。

 こんな不安定な状態で繋ぎ止めるわけにはいかないと敢えて想いを隠し通すことを決意した水瀬は、手の中の缶コーヒーを煽るように飲み干すと、足早にデスクへと踵を返した。つい今し方の逡巡を振り払うように前方を睨む鋭い眼差しからは、彼の人間くささなど微塵も想像させない。仕事に徹し切る覚悟で鉄面皮を付け、颯爽とフロアを横断してゆく中、最後の算段が弾かれていた。
 異動は1週間後。
 残された時間は僅かしかなかった。

ships#31 に続く

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